人生を懸けて証明する

私の中で、明確な事実として育っている考えがいくつかある。

・心の状態が身体の健康に「影響する」どころではなく、それはイコールであること

・「人の話を聞く」という行為はこの世で最も難しく、かつ最も尊い行為であること

・この世に「生きている」ということは、ただの「存在の一形態」であること。生きている状態と、死んでいる状態があり、そのどちらがいいとか悪いということではないこと


そしてこれらはすべてつながっている。

まず、
「健康とは、こころの平和」
(『怖れを手放す』水島広子)

この本では、こう言い切っている。似たような発想は五万とあれど、イコールで言い切っている本は見たことがない。
冷えとりでもこの考え方は同じで、心の状態が体にあらわれる。そう知っている私でも、イコールとまでは思い至っておらず、衝撃だった。


そして「こころの平和=健康」は、「正しい方法で人の話を聞くこと」と「正しい方法で話を聞いてもらうこと」の2つから始まる。(どちらか片方だけではなく、両方で成り立っていく。まずは約束を頭に入れて、実践しながら生きつつ練習するほかない)


それから、死生観。
(輪廻を前提としないと、私の中でほぼすべてのことが成り立たない。
たとえば、「こころの平和=健康」と言ったとき、「前世」という前提がなければ、生まれながらにして病をもった赤ちゃんなどの説明もつかない。親の心の毒という要素ももちろんあるけど、それだけで説明するにはあまりに無理がある)

冒頭の3つめの発想は、『命日占い』(かげした真由子)内の引用(『いのちの営み、ありのままに認めて』(バート・へリンガー))よりきています。

たとえば、「亡くなったおじいちゃんが事故から守ってくれた」といったような霊体験でも、「じゃあおじいちゃんは今どこにいるのか?」という問いまで考えると、つまり死の後でも「存在している」ことがわかる。


そして一番思うことは、死とは「暗くて、つらくて、冷たいところ」にあるのではなく、「光に包まれた、やさしくて暖かいところ」にあるということ。

「光に包まれたやさしくて暖かいところ」で、「エゴだけを大事にし、強欲に奪い合う」ようなイメージをする方が難しい。

そういうのはこの世でやりましょう、この世でやっているうちに、いろんなことに気づきましょうということだ。

自分の中であまりに確かな事実として、いろんなことが形づくられてきている。それを改めて言葉にして、かつそれを興味をもって見たり聞いたりしてもらうのは本当に難しい。
その内容が、誰かにとっては不正解でも、誰かにとっては必ず救いになると信じている。
もどかしいけど、やるしかない。人生を懸けて、やっていくしかない。

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