私たちは何かを選ぶことができるか
会社を辞めることを伝えてきた
自分でも、思い切ったと思う
今、不思議なのは
一人暮らしを始めた頃を思い出したこと
なんの保証もなかったけれど、ただ
今の私ならうまくいく、という自信だけがあった
本当はこわかったけど
少しでも、なにかの線がずれてしまえば
終わりだという綱渡りの気持ちもあったけど
それを上回る「変えたい」があった
思いを積み重ねたのは、8年
今回は6年だった
本当につらかったのは
つらいことそのものよりも、
変わりたいのに変われなかったこと
どうにもできない年月があった
自分の意志では、どうあがいても、
変えられなかった
終わりは見えなかった
生きることしかできなかった
浅い息を、繰り返しながら
暗い網に、捕らわれたまま
探しつづけたのに
見つけられなかった
私たちは、何かを選ぶことができるのだろうか?
今まで、自分の意志で選んだものはあったか?
私は、書くことですら、自分で選んだ気はしない
これまでのすべての線が、そこに向かって
やれ!と叫ぶだけだ
その線は、私が用意したんじゃない
いいも悪いもなく、あった
私たちは、なぜ生きている?
私は、なぜ生きている?
そこに、そこに、理由があるならば
道は開かれる 待っていたというように
私は何も知らされず
その道を歩くことになる
自分の意志かと問われれば、
Yesでもあり、Noでもある道を
3年前も、私は会社を辞める意志を伝えた
でも、そのときは結果的に、辞めることにならなかった
それが一人暮らしができることにもつながった
予期せぬ社会になったときも、首の皮がつながった
私たちは、何かを選ぶことができるのだろうか?
私の大好きだった黒猫
田舎にいた「ウー」は、おばあちゃんと暮らしてた猫
とにかく優しくて
動物が怖かった私のことを変えてくれた
私が猫を好きになったのは、ウーがいたから
マロとの出会いはウーから始まっている
猫が好きという気持ちは、私が選んだわけではない
ウーとの出会いで生まれたものだ
ウーとの出会いもまた、私が選んだものではない
そこにあったもの
「好き」という気持ちすら、感じるものであり
選んだものではない
私たちは自分で考えているようで、
そうでもなかったりする
同じ出来事が起きても、
お腹の調子がいいときと、悪いときでは
捉え方も変わる
「自分の思考」とはそのくらいあやういもの
身近な誰かの一言、もっと言えば
そのときたまたま耳にした言葉に導かれることもある
私たちは、もがく
生きるために
それは、「社会」という枠組みの中で生きること
でもそれは、
地球上で「生きている」こととは、全く違うことである
私たちは、「社会」で生きながら、
同時に地球でも生きている
それは別の意味をもっている
「社会」ばかりにとらわれることは、
地球で生きていることを失念している状態だ
そして「不安」とは、たいてい社会が作り出したもの
思い出せ、私たちは地球で生きている
思い出せ、この青い星に守られていることを
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