子ぞうの鎖

昨日は気功で駄々をこねた。
先生が、「やるしかない」って言うから。

「わかってます~!」って軽く言ったつもりが、
思ったより怒った口調になって、涙が出てきた。

私は初回から泣いているし、先生は泣いても慣れてて全然動じないけど(むしろ毒出しといい歓迎する)、さいきん私が反発したり怒るのでちょっと慌てさせてしまう。

泣いた後にも先生と話をつづけていると、
「自分は変わったから、やろう」
と思えているのに、
なぜ動けないのかがわかってきた。

・一人暮らしをしても、もし仕事がしんどすぎたら、生活を続けながら仕事探さないといけない(みんなそれをやっているんだけども……そういうことにもびびってたんだなぁと自覚)

・好きな仕事ややりたい仕事ももはやよくわからないが、条件を広げすぎても、せますぎても選べずに、選ぶ基準をはかりかねていた。

あと、これ。
・変わってからの自分と、変わる前の自分。
圧倒的に、変わる前の自分の年月の方が、
長いんじゃ~~!!

「できる」「できない」をさんざん自覚させられてきた、
幼少期、学生時代、就職、これまでの人生。

そら、今の心身の調子がよくても、
期間的にはまだこっちがイレギュラー。
不安にもなりますわ。


さて、タイトルの話。
こんな話を聞いたことがあると思います。
「大人になった象は、足の鎖をとっくにちぎれるのに、子どものときから何度トライしてもちぎれなかったことが身に染みていて、チャレンジすらしなくなっている」。

この話、私自身も、自分が「こうだから」と思い続けてきたことがまだ頭や心のなかにあり、それが無意識に自分をおさえたり、エネルギーをうばったり、しばったりしているとおもう。

(ただ、動物園でみる象はたぶん鎖とかついてないし、大人の象自身は、鎖をちぎれるかどうかより、この人間社会自体から逃れられないことを知って、自分のもつ力を自覚しながらも、やらないのかもしれないけど。←象への敬意。余談でした)


何を言いたいかというと…
はたから見たら、象がもっている力を発揮できなくて、もったいね~!と思って、「鎖、もうちぎれるよ!やってみ、ほら!」と言うことはできても、本人にとっちゃ急に「えっほんと?やったるぜオラ~~!」 とはなかなかなれないよっていう思い。(?)


だれかにとっちゃ、甘ったれた考えでも、自分がそれを「課題」ととらえるなら、自分にとってはそれこそが人生の課題だ。

逆に、自分にとっては楽勝なことが、人にとっては最大の課題なこともある。


人の課題のサイズは、外からはわからない。

だからこそ、「自分の不安」をばかにしてはいけない。

だってそれこそが「自分自身」の戦いなのだ。


冒頭の、気功の先生もそうだし、信頼している手相でも「こうだから、こうしなさい」と言ってもらえて、確かにそうなんだろうなと心から腑に落ちて納得できても、「こうしなさい」がなかなかできないものだ。

「こうしなさい」「こうしたい」がスイスイ簡単にできるなら、
生きてる理由があまりないよ。

「わかってても、できない」を、ひとつひとつ、自分を律したり、時にはせめたり、褒めたり励ましたりしながら、もがいてもがいて、やっとのことでやる、ことが、人生そのものじゃないか。


「象は鎖をちぎってどこへいく?」

それは、ちぎってから考えるしかないと、
私には昨日、やっとわかったんだ……

ひとつずつ、ひとつずつだよ、私よ。

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