水の流れる方向に

鈍感力という言葉に
苦しめられたときもあった。

まだ、各人がもつ性質というものを
よく知らなかった。

鈍感な人に、敏感になれと言っても難しいように、
敏感な人に鈍感になれと言っても無理な話。

でもそれがわかっていなかった。

「考えすぎ」とよく言われた。
考えすぎないようにするにはどうしたらいいのか、悩んだ。

「気にしすぎ」もしかり。よく悩んだ。

私は個々に言われた「人と違うところ」を
つぎはぎのようにでも治していかないと、
自分は生きづらいままなんだと思っていた。

でも今はそう思わない。

誰かが「後天的に治せたところ」は、そもそも
元々もった性質じゃなかっただけだ。

誰かが後天的に治せたところを、
「私はこうすることによって自分を変えた」と語れば、
それは「同じく後天的に治せる範囲だった人」を救うことになり、
「元々性質をもった人」は苦しむことになる。

なんのために
普通を目指して苦しむのだろう?

がんばって「普通の人」になって
それで、あとは……?

先日「自分には会社員無理!」と暴論を書いてから、
また見えるものが増えてきた。

コールセンターで昔アルバイトをしていたという女の子が、電話の対応がものすごく上手なのを見て、「私もそういう社会的なスキルを身につけておきたかった…学生時代にやっておけばよかったのだろうか」と思っていた。
でも、受け取りやすい自分にはそもそも無理だったろう。もっとイヤになってしまっていたかも。

で、とはいえ環境が変われば、
できないと思っていたことができるようになることもある。

だって前の会社では、
今ほど電話に緊張してなかったよ。
(苦手ではあったけど。)

環境次第でできたりできなかったりすることを、
「電話対応ができない」と自分をくくってしまうと
見えなくなることもある。

もった性質はそういう細かな設定まではないだろう。

だから、「自分が無理をする」のではなく、
「自然とそうなる」ならば、やってみる。

角度がついていれば、
水は頑張らずともその方向へ流れていく。

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