覆いかぶさった座布団を1枚ずつ剥がしていく

なぜか思い通りにいかない
その部分こそ、自分が自分として今を生きる意味だと
仮定してみています

たとえば、したいことが思うようにできてしまう人
世界の方から自分に合わせてくれるような人
それは死ぬほど羨ましかった
だけど今は思う
すぐにできてしまうと飽きて、次を探したり
自分が何と向き合えばいいか、わからないことがある
味わえない気持ちがある

社会は「ゼロ和」ゲームでできていて
誰かが勝てば、誰かが負ける
みんなこの中で一喜一憂している

でも本当は、人生は「非ゼロ和」ゲームで
誰かが勝つことが、誰かの負けを意味しない
ただ、自分のもつ課題と闘って生きる

自分の背負っているものは他人は背負っていないし
他人の背負っているものは自分は背負っていない
なぜなら課題が違うから
生まれ変わりを前提として
今回生きるべき自分を生きる

課題は、誤解しやすい
たとえば、私が前の会社にいつづけること
これは「課題と闘うこと」と似ているが、違う
自分が自分のままで、もっと生きやすい場所を探すこと
こっちの方が課題

自分がもっと少しでも生きやすい場所を探して
その場所で、また出会う壁
これも課題なのかは、それぞれで
でも「どこにいってもおんなじような人がいる」と言う人がいるのは、その人がもつ縁と、その人のつくる世界が、課題を見せてくるのではないかと

その人のつくる世界の部分は
大抵、実態のないもの
不安や、こう思われてるんじゃないかとか、評価とか、会話など目に見えるものも、別に自分の命を直接おびやかしたりするものではないし、職場の気の合わない人とは結婚したり付き合ったり友達になったりしなくていい、つまり家族になったり深い関係になる必要はないのに、それでももっとうまく関わりたいと悩む

その大抵、実態のないものこそ
時にどこまでも大きく肥大し、自分をおびやかす
形があれば簡単だ、数値があれば単純だけど
でも、そうじゃないからこそ
実態のないものと闘うことが課題になる

「課題」「闘う」といっているがまた
これも便宜的なもので
一生懸命に倒すものではなく
向き合うべきことと
今味わっておくべきことという感じで

一生懸命に倒そうとしてしまうと
エネルギーを浪費したり、自虐的になったり、
怒ったり、落ち込んだりしてもがいて
それも含めて、味わうべきことでもあるかもしれないがなんというか
無理ならやめていい、仕切り直していい、続けなくていいというか

自分の課題なのか、ただの社会のもつ問題なのか、周りの人の課題なのか、誰にもわからないし境界線はない

だから、自分の課題だけはある意味
ちゃんとついてくるので
移動した先で、別の形をとって現れて
でもそのときには他の課題が取り払われていて
視界はクリアに、そしてより元気に
向き合いやすくなるんだろうと

たくさんの座布団が、自分の上に重なっていて
重いんだけれども、1枚ずつ剥がしていくと
だんだん軽くなっていって
やっと自分が見えてくる
ような

だから、自分の課題と闘えというのは私の言いたいこととはまったくの真逆で

他人の課題まで背負わなくていい
自分が生きやすい道をひたすら探せば、
他のことが取っ払われ、視界がクリアに、荷物は軽くなる
体はのびのびと、心は焦らない
そのとき、やっと自然と
自分が向き合うべきことが出てくる
というような

しなくてもいい闘いに苦しみ、その部分で楽をしている誰かを見て憎んだり、そういうことをもうしなくてもいいんだってことを、思っています


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