言葉と深い呼吸

自分と話したり、声をかけたりする中で、
合う言葉、心が休まる言葉、落ち着く言葉を見つけたときのサインはすぐにわかる。

言葉をかけた後、自然に一回深い呼吸が出る。

深呼吸のイメージとほぼ同じような感じ。

深呼吸って、意識してやろうとすると、交感神経が高まってしまうらしく、わたしはうまくできないことが多い。

自分のためにかけた言葉が心に響くとき、自然と大きな呼吸が一回出る。

「呼吸が深まれば心も落ち着く」と思って、子どものときからことあるごとに、先に呼吸を深くしようとしたりしてきたけど、ちがうんだね…

心が落ち着いていると、呼吸が深まる。

それで…毎日を一生懸命生きている中で、
いつも呼吸が落ち着いていられる人って、あんまりいないんじゃないだろうか。


私は前まで、漠然と、「人格は完成するものだ」と思っていた。たとえば「一度すごい人になれれば、もうずっとすごい人でいられる」みたいな。
でも最近はそうではなく、どんなにすごい人でも、常に変わりゆく世間や日常の中で揺らぎながら、大なり小なり変わっているものだと思っている。

雲の上の、常なる晴天、そういうところにいる人もいるのかもしれないけど…私はまだ会えたことがない。


話は戻って、一生懸命生きている人ほど、呼吸は浅いかもしれないという話。
なので落ち着ける時間のときに、自分にとってのキーワードを見つけてみると、かけてほしい言葉、求めている言葉が呼吸によってわかるんではないかという話でした。


それでね…今読んでいて進まない『怖れを手放す』(水島広子)だけれども、この本はあるガイドラインや原則を示している。そこでは、「健康とはこころの平和」と言い切っている。

それで…これまで散々、ことあるごとに体のことを考えてきて、気功に通ったり冷えとりをしたりする中で、感情と臓器の関係を知ったり、体の変化を通して人生の変化を実感してきた中で、この言葉は真実だ…と思うわけです…

「健康とはこころの平和」。

私は、両親の代からある仏教に属しておりまして、学生時代まではそこでいろんな話も聞いてきた。たとえば活動によって病が治ったなんて話は、もう全然珍しくない。だけどそれぞれにちゃんと人間のストーリーがあるんだよね。私はそこで聞いてきた話をひとつも嘘だと思っていない。それは、ある特定の宗教の力をというより、宗教によって引き出された人の心の力の方を信じているからということなのかもしれない。

宗教は、人の心の力を引き出すものであるべき。
もしくは、人の心を静かにするものでもいいなと思う。

「信念をもった人の団体」である以上、合う合わない、縁もあるから、自分にとって合うものを探すのが一番なのではないかな。いろんな事情で難しいと思うけど…

さて中身がなくただ「宗教」を名乗っているだけのものはもちろんこの話には含まれません。

宗教で学べるものといえば、道徳心や死生観も、生きるうえで大事な要素のひとつじゃないだろうか。

母の話では、いざ年老いてから慌てて加入しようとする人もいるらしい。死について身近に考えるからだよね…


私が、おばあちゃんやマロが今は苦しくない場所にいると思っているのは死生観があるから。(これは仏教の土台もあってのことだけど、倫理で勉強してきたことやテレビや本、宜保愛子さんとか女子大生CHIEちゃんとか美輪さんとかすみれちゃんとか…でできている)
他の人ってどうなんだろう。
生まれ変わりについて話を振ったりすると、「あんまり深く考えたことなかった…」と言われることが多い。
そういう人でも、なんとなくいろんなイメージは持っていると思う。

死んだら無になると思っている人と、また生まれ変わると思っている人とでは、生き方も変わってくるよね…

何が真実かとかじゃなくて、生き方の話。

私は私の生き方を信頼している。
絶えず揺らぎながら、悪態をつきながら、愚痴を言いながら、弱音を吐きながら、それでも好きな人たちの役に立ちたいと思ったり、言葉を探したり、それでも体力がなくてすぐに寝転んだり、気圧にめちゃめちゃやられながら、隣人の騒音に怒りながら、やっぱり好きな人たちのことを思い浮かべたり、過去の思い出を恥じらったりして、なんとか生きているこの生き方を。

話がいろいろ飛んでしまってごめんなさい。
今回も書けてよかったです。



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