母が嫌いよ

この世で、自ら進んで
「母を憎みたい・恨みたい・嫌いたい人」
はいないだろう。

ということを前提として、

もし私のそばに「母の頭かちわるボタン」があったら、獣的な衝動でいえば百万回(!)は累計で押していると思う。

でもありがたいことに「母の頭かちわるボタン」はないので、母の頭は健在だ。よかったよかった。


母のことがとても嫌いだ。
もっとイヤなやつは世の中に無数にいるが、
他人なら離れられるのに、母とは家族関係があるからだ。

そして、自分を「母のことが嫌い」と思っている人間とすると、私は母に対して、本当に優しくしているほうだと思う。だって嫌いなその人と会話をし、笑い、相づちを打ち、思いやりを配り、諭し、知らないことは教えて、家族との会話に齟齬があればフォローしている。

私は嫌いな相手に対してそんなことはしない。

憎みきれない。恨みきれない。嫌いきれない。
かわいいところもある。
でも人として好きじゃない。
ひとりの人間として愛せない。
尊敬もしていない。

母の価値観、発言、世界の感じかたは3歳児くらいだと思っている。母がそうやって生まれたことは、確かに仕方ないことだ。仕方ないと分かっているつもり…。だけど、中身は3歳児なのに、見た目はいつも不機嫌な中年ばばあで、いつまでも私より大人のふりをして、私の言うことはとりあえず否定してくる。

全部母のせいにすることだってできる。昔からの自信のなさとか、なぜかいつも不安だったり、人に気持ちをわかってもらえない怒りや、母に似た女性に対する無意識な恐怖、それらを総じた世界に対する恐れ、恐れによる社会での振る舞いのぎこちなさも。
だけど、私は、ずっと自分の問題として戦ってきた。
知らなかったからだ。自分の親はいい親だと思っていたからだ。

母はもちろん自分のせいだなどと露ほども思わず、テレビにうつる「親孝行な娘」を私に求め、得られずに不満げだ。
この人に責任をとってもらおうったって…。

人が戦わなくてもいい部分で磨耗し、元凶である親の庇護下にいるという悪循環。物理的に離れればだいぶ楽になるだろう。私もそれを切望している。心身が整ったこれからは、そのためだけに動くだろう。一方で、家を出れば解決することではない。母が死ぬまで多かれ少なかれ戦いは続く。

私は自分の生い立ちも、体のことも、感じてきた感情も、すべてをありのままに受け入れる練習をしながら、向き合って、これからも戦っていくだろうし、そう思える自分に誇りをもつ。えらかったし、これからもえらい。そして、そんな私の心を育ててくれたあらゆる本たち、先生、
なにより、最高の友人に感謝する。

嫌いな人の嫌いな部分を知れば、
好きな人の、涙が出るほど好きな部分がわかる。

愛が憎しみの親ならば、憎しみは愛の親でもある。
どちらも知って、人になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?