守られることと、守ること
知らない間にだれかに守られていたり、知らない間にだれかを守っていることもあるのだと知った。
自分の知っている世界だけで見ていたら、「なぜ私から離れてしまったのだろう」と悩んだことも、「実はあの人とは離れてよかったのだ」と知ることがあった。
また、自分がそこにいるだけで、だれかの厄災を遠ざけていることもあるのだと知った。
私が気にしていることを、何も気にしない人もいるし、
私が何気なくやっていることが、実はちゃんとだれかのためになっていたのだと知ることがあった。
なんだかんだ言って振り返ればつらかった今の会社の1年目の間も、必死にやっている姿だけでだれかの何かの役に立っていたのだ。
4月や5月は不運だと思っていた。
だけど、たとえば購入したテレビ用のスピーカーが不良品だったからこそ、返品もできた上に、実はテレビ側にも不具合があったことがわかった。(もし交換や他のものを購入していたら、お金を払う上に、使用もできなかったのだ)
仕事で、「危うく見逃すところだったのを、ふとしたきっかけで気づけた」ということも何度も続いた。
起こっていることに気づけないことは無限にある。
「酸素」という言葉を知る前から、
私たちが呼吸をしていたように。
いろんな幸運には、偶然とか運とか経験だとかも割合の中にはあるだろうが、
だれかのおかげでそういうことになっていたとしたら、
「偶然」と思うのは失礼だし、守った方もがっくりしてしまうだろう(本人が幸せになってくれればそれでいい、という人もいるかもしれないが……)。
自分だけで生きていると思うのは本当に愚かなことだ。
縁があるかぎり、「自分だけが人に影響を与えていない」などと思うことは愚かなことだ。
相手から影響を受けていることが確かなら、
自分も相手に影響を与えている。
あの人は素晴らしくて、自分はそうじゃないとか、
そういうことはあり得ない。
誰かは誰かにとって、必ず素晴らしいのだ。
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