一生
「一生」という言葉はおもしろい。
私たちにとって、「一生」といえば、「自分が生きている限りずっと」のようなニュアンスで使うことが多い。
たとえば、「私は一生タバコを吸わないぞ」みたいな。
あとは、「全生涯」といった意味で「猫の一生」とかも言う。
ただ、「生」をいのちの単位(数えかた)と捉えれば、
一生、二生、三生…と続いていくことになる。
そう見ればこれは、生まれ変わりを前提にした言葉のような感じがする。
じゃあ今、自分は何生目か?
私の知るところによると、
生まれる種族はランダムじゃないらしい。
一度人になったら、
もう鉱物とか虫とか動物にはならないんだって。
だからきっと今まで、何千回、何万回も生まれ変わってきてるんだろう。
「意図的でもなく、だれも気づかないうちに踏まれて、アリって可哀相…」なんて思ったこともあるが、きっと自分がアリだったこともあるだろう。
彼らの最終形態もアリじゃなく、どんどん生まれ変わっていく途中だとしたら、自分たちの後輩じゃないか。
後輩には、愛をもって接したいものです。
同輩には親しみをもって。
先輩には敬意をもって。
現世での年齢や肩書きじゃないよ。
さて、私はあの世には閻魔大王はいないと思っています。
今の自分の肉体から離れ、つまり「脳での思考」から離れて、何十年、何百年と体感してきたすべての感性で、
自分の今回の一生を見つめるのだと思う。
善も悪もないとはそういうことだろう。
他者による判断は存在しない。
判断は、自分の全生命でする。過去の何万の命による客観だ。
よりよくありたいと願うのは、
なにも今生きてる間だけじゃない。
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