おばあちゃん

祖父という言葉には馴染みがない。
父方のおじいちゃんは、父がまだ中学生のときに亡くなった。
母方のおじいちゃんは、私が四歳のときに。

一方、私が祖母という言葉を人前できちんと使えるようになった最近まで、ずっと元気でいてくれた母方のおばあちゃん。
大正、明治、昭和、平成、令和の現在まで、
5つも時代を生きてきた人。

3日前、その祖母が脳硬塞で病院に運ばれて、
私はどういう気持ちで、どういう覚悟でいたらいいかわからなかった。

ドクターヘリで運ばれて、でも手術は間に合わなくて、
薬で落ちつかせているが、意識はうたた寝をしているような状態だという。

高齢も高齢で、98歳という長寿だ。
今まで休暇で会いに行くたびに、もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思いながら、
機会を大事に接してきたつもりだ。
きっとおばあちゃんもそうだっただろうと思う。

元気な姿を最後に見た姿にしたい、
なんてことも思った。

それに、おばあちゃんは、自分のために人が動くことを申し訳なく思う人だ。

だから、私は、冷たい孫かもしれないと思いつつ
自分は自分のできることを家でやって
留守番をしていようと思った。

だけど、会えるときに会いにいった方がいい、意識はなくても、来たら来てくれたってわかるから、と友達に言ってもらえたときに、ああ、そうかと思った。

なにもできないけどとにかく駆けつけてあげる、ということがそれまで浮かばなかった。ぼんやりとしていた。

友人も、父も、行ってあげてと言ってくれて、
まだぼんやりとしたまま、翌日兄と電車で向かった。
幸いにも、世間は週末で、会社を休むことなく来ることができた。
電車内では、兄とずっと話をした。

病院に向かう間、合流した母からまた詳しい説明を聞くが、
まだぼんやりとしていた。

つい最近まで、病院にほとんど縁がなく暮らしてきたおばあちゃんは、
人に迷惑をかけることにならないようにと、健康を意識して食べるものに本当によく気を使っていた。

前に縁側で、足をぶらぶらさせてのんびりしている姿がかわいくて、写真を撮ろうとすると、素足なんてみっともなくて撮っちゃだめ、と断るような、いくつになっても気品を持った人だ。

そんなおばあちゃんが、病院のベッドで寝ていた。

いつも実家に帰っても、手を握ったり、体をさすったりするようなことはなかったのに、今回はおばあちゃんに許可もなく、手を握り、体にふれるということが不思議だった。無遠慮な気がした。

はじめは眠っていたけれど、途中で目を開き、私たちが来たことに気がついてくれたようだった。
意識はないと聞かされていたのに、泣いている私を見て、動く方の手をグーで握り、手をあげて「大丈夫」とジェスチャーしてくれた。力強い動きで、それは確実に私たちに、私に、確固たるメッセージを送ってくれた。

それは、いつも、東京に戻るときに、「元気でね」というと、「私は大丈夫、強いから、病気の方が負けちゃうから」と言っていた、その言葉そのものだった。

私が泣いているからと、きっと気を振り絞って伝えようとしてくれたことにまた涙が出て、目を見てうなづくことしかできなかった。

おばあちゃんは、意識がないどころか、そのあと指で何か文字を書くような動作をした。私は必死で読み取ろうとしたが、わからなかった。でも確かな書き順で、はじめは「エ」と書いた。そのあとも、指で「き」や「シ」を書いた。でも前後の文字がいくつもわからなくて、悔しい思いをした。

ひらがなの「き」もそうで、また「シ」なども、確実に横に二本を書き、下からはねるところまで確かなものだった。
でも母や叔母は読み取りをなぜか最初からあきらめていて、もしかしたらその前日までに読み取りに挑戦して諦めていたのかもしれなかった。

私が必死に動きを読み取っているとき、母が「わからないよ」と声でさえぎるので、その間にも文字を見逃して、悔しい思いをした。

今日もこれから病院にいく。
また文字を読み取れないかもしれないから、
きちんと読み取ることに重きを置くのはこわい。

伝えたい言葉があるなら、ちゃんと聞きたい。
文字でも、ジェスチャーでも…

追記
あのあと、もう一度病院に行ったが、
ぐっすりと眠っていたようで、
叔母ちゃんが起こそうとしてくれたが、
よく眠り続けていた。

でも、来たことはきっと分かっている、ということだけは、みんな感じていた。

ここ最近、おばあちゃんと交換し合った本は、霊界についての本ばかりだったが、それは生死に対して心を穏やかにするものたちだ。
そういう話ができたことは、私たちだけに通じる会話のようで、楽しかったし、本当によかったと思う。

たくさんのことを学ばせてもらっている。

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