未来に
かなしいなと思うのは、
もうコ◻︎ナを知る前には戻れないことだ。
社会人になってから数年後のあるとき、友達と2人で箱根旅行に行った。
そこで、大学生と思われる4人くらいの女の子たちがキャッキャしているのを見て、私たちは同じことを思った。
社会を知った私たちは「もうあの顔じゃ笑えないよな」。
子どもではないがまだやはり目が澄んでいて、心の底から腹の底から、楽しくて仕方がないというあの感じ。私たちも以前は確実にもっていたあの感じ。
決して揶揄でなく、なんだか呆然としてしまうほどだった。
私たちがどんなに爆笑しても、転げ回っても、「あの顔」はもうできないんだなと初めて思った瞬間だった。
そして、コ◻︎ナによって強く感じたことは、時間の感覚が歪んでしまったこと。
去年は、在宅ワークでの曜日感覚のズレ。そして日・週・月感覚のズレ。週末の遊びや楽しいことで区切れない日常。
また会話上での、「◯年前」の感覚がかなり分からなくなっていること。たった2年前の2019年のことが、とても遠くに感じてしまう。
そう、箱根旅行で感じたことと共通するのは、
「なんだかもう遠くにきてしまった」、この感じだ。
これまでも、時代はここ数年どんどん加速しながら変化していた。コ◻︎ナの登場はそれをよくも悪くも後押しするような形で、いろんな変化を推進していった。地球の存続を守り、時代を動かす必要悪ともいえた。しかし私たちは…国になんだか心を置き去りにされているような感覚が続いてきた。声が届かない、向こうの声も聴こえない政治と、あまりにひどすぎて不思議にすら感じるニュースメディア、その情報やコ◻︎ナのストレスをいろんな形で受け取って噴出する、人為的な問題。
今まで当たり前にあった日常が、こういう形で奪われることがあるということや、そういうときに人はどうなるのか、国はどうするのか。そういうことを体感してしまった。
苦しむ人たちは、あまりに透過されすぎている。それなのに、「苦しいのはみんな同じだから」と、それぞれが一人一人我慢している。
それぞれが、それぞれに「苦しい」と言っていいはずだ。自分の苦しみをもっともっと表現していいはずだ。
さっき国とかニュースメディアとか大きな主語で言ってしまったけど思い直したいのは、どんな場所にも人のために頑張ってくれている人がいて今が成り立っていること。誰にとっても未知の事態で、いろいろなことが起こるのは仕方ない。
この世界に希望をもつとしたら、「どんな場所にも人のために頑張ってくれる人がいる」ということだ。
それは組織単位じゃなく、確実にひとりひとりの姿勢だ。
誰かの意図で世界が回されていたとしても、そういう人が報われる社会にしないといけない…
よく気づいて、気が優しくて、そういう人は誰かの悪意や幼稚な善意に簡単にやられてしまう。
強くなるには多少の悪、毒をもつことが必要だ。
悪という選択肢をもちながら、自分で善を選びとる意志が、私の思う生き方のかっこよさのひとつだ。
好きなように書いてしまいましたが近況も書きたい。
私は今、3月よりは、8月よりは、一応元気です。
だけどやっぱり元気じゃないなというのもわかる。
「たすけてくれ」と1日に2回は必ず思う。
ちょっとつらいことがあるとダメージが普段より大きい。(一個の出来事のサイズ感覚が大きくなっているのかもしれない)
平日の楽しみは、その日のご飯やデザートを選ぶこと、ゴールデンカムイの尾形を見ていること、オードリーのラジオ、突然ですが占ってもいいですかを観ること、スピッツを聴いてじっとしていること。
「平日の楽しみ」が、たった数行で書き出せるということも寂しい。もっと無数にあっていいはず。
今後コ◻︎ナ社会にも、「病み上がり」の期間があるはずだ。そのときにはちゃんと先の光を見て、少しずつ、しっかり元気を取り戻したい。
体の中の希望、期待感、明るさ、そういうものをひとつずつ取り戻したい。
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