道の猫ちゃん、命日占い

やっぱりいろんなことがある。

昨日は、阿佐ヶ谷まで友達を送っていったところ、道中の暗がりから突然、首輪をつけた猫が出てきた。人懐っこく、鳴きながら甘えたようについてくる。

私は今まで、マロのために外の猫はなるべく触らないようにしてきた。猫の風邪は、一度ひくと治らないと聞いたこともあったりしたから。それに自分も、悪気なくじゃれて引っかかれたりしたら、外で流血しちゃっても困るしね(猫はわるくないし)。

だけど昨日の子、ほんとにしばらくついてきた。たぶん、ご飯はくれない人たちだと分かっていただろうに、甘えた声で鳴きながら、とてとてと。

かわいすぎて、つい、なでる。
猫をなでたのはマロ以来。
私の手は、猫のなで方を知っている…
この感触をよく知っている。
という、妙な言い回しになる感覚になった。

今朝は、その子のことを思い返すうち、やっぱりマロのことを思い出して泣いちゃったな。

それで、昨日はその猫ちゃんに出会う直前に、駅前の本屋で『命日占い』という本を買ったんでした。

前から気になっていたんだけど、ネットで買う前に少し実物で読みたいなと思っていた。でも、それまでに寄った書店には置いてなかったりして、そのままになっていた。

私は友達と一緒にいるときに何かを買うと、その日の思い出も一緒に形にできるような気がしてうれしいのだけど、この本も大正解だった。

買わずに先延ばしになっていたのも、必然なような気さえする。真剣に取り組みすぎて進まない例の本とも、分野はまったく違うのにめちゃくちゃリンクする。といいつつ、当然といえば当然かもしれない…つまりは人生のことだから。

とにかくこの本のすごさったらない。

校正者としては、「なぜこの言葉を選んだのか」に必然性がある文章にはやっぱりしびれる。
この本は、実感のともなった言葉が並んでいる。
そして、この世界、霊的世界、断片的にわたしがずっと考えてきた概念、集めてきた感覚、なんとなく感じてきたことが、具体性をもって書かれている。

私はすごい本のことを、読み終わる前にこうしてすぐ言いふらす傾向があって、この本も最後まで読み終えるのはいつになるか知れない。まだぜんぜん前半なのだ。

しかも読んだ前半すべてに「ああ…」となり、何かを書こうと思ったら全部になってしまう。かといって、この手の(目に見えない世界の)ことを中途半端に書いてしまうことで、「あ〜そういう感じね」と判断させてしまうのもいやだ。また今度改めて…
(こうして重くて大切なことほど先延ばしにしてしまうが…)

でもひとつだけ。改めて思ったことは、長年の間読み継がれる名作には、「みえている人」「しっている人」が物語に織り交ぜたヒントが入っている。だからこそ、それらの作品に触れてきたたくさんの人たちは、本当に大切なことを「なんとなくすでに知っている」のだ。
「モモ」にも、「星の王子様」にも。
「アミ 小さな宇宙人」はそのことをまさに書いていたし。(本当のことは、おとぎ話だと言って書くんだということ)

作品の価値というものも考えさせられる。
「物語」の価値。
映画「サイン」でも言っていた。

うう…まだまだ書きたいことがありすぎてつらい…
つらいので眠い…
エネルギーが…

気力と体力がいちばんの課題…

今日、一万円するサーキュレーターを買って、レジの人が研修中の人で、10%のポイントをつけてくれないままお会計が終わってしまい、なんとなく言い直すことができずに悲しみながら帰ってきたこと。小さいサーキュレーターなのに、私の小さい体には大きく、持ち帰るのが大変で、「当たり前みたいに重い荷物を隣で持ってくれる人がいる」人の幸せを考えたりしたことも、本当は書きたかった…(←ここでほぼ書いたか…)
それでは、おやすみなさい…



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