この夏を生きる

昨日兄が、突然吹き出し笑いをして、言った。
「あつ森の、島のドラムを叩いてるこの時間って、人生においてなんなんだろうな…って思った」
私も時間を持て余しすぎていたので、大いに笑いました。

うちの会社はお盆休みが長くて、いいなぁと言われるし、実際よかったと思う。でも、いいなぁと言われたときは「時給制だからねぇ」の一言で逃げている。なにから逃げている?私も、人の休みが自分より長いと「いいなぁ」と思ってしまう。謎の不公平感。仕事内容も、雇用形態も、給与体系もすべて違うのに。この誰も幸せにしない不公平感ってどこからくるんだろう。人生もみんな違うのに。持って生まれたものも、経験してきた過去も、考え方も捉え方もなにもかも違うのに。
ちなみに長期休みには有休を充てるので、有休は減れども意外とお給料は変わらないのです。しかし、祝日はあてられないので別です。意外と三連休が重なる月とか、GWがきついです。

それで、今年。長い休みを生かせない。年に二回は伊豆に行く体ができあがっているのに、行けない。都内で遊ぶにしても、コ◻︎ナを気にして人がいる場所も避けるとなると、なかなか遊べない。そして暑いし。暑いというか熱い。熱帯。で、同じく都内の実家に帰るくらいしかない。それもおたがいにリスクがあるけど。でもマロの様子を見に行く。でもマロをずっと凝視しているわけでもないので、兄の買ったあつ森をやる。兄がやってるのを横で見たり。なにもやる気力が沸かないので、マロのこと以外は家のこともほとんど手伝わない。やばい奴。

実家の3人はそれぞれ、それぞれの課題とまだ戦い中。少しずつ変わってきているけど。私がいくと、兄も父も、母に主張しやすくなるようだ。母は自分を曲げたら負けと思っているように駄々をこねるが。

私は今ずるい。ひとりの家に帰ればもう距離が置けることを、知ってしまっている。わかってしまっている。好き放題、言って食べてやって帰る。

母が伯母に電話をかけて、途中で代わってもらって話した。一人暮らしの感想を伝える。
「私は本当、ひとりじゃ生きていけないわ。(笑)」
「そうだよねえ、そういうのが暮らしてみるとわかるよねえ。だから、いい人見つけるんだよ〜。(笑)」
親戚の人の“あるある”みたいな感じだけど、素直に「そうだよな〜」と感じる。
伯母は何年も不眠に悩んでいる。庭にまで出るようになったイノシシ被害にも悩んでいる。2年前にした冷えとりの話もあまり受け入れてもらえず、「心配だなぁ」と思うことしかできない。

今、マロは高齢だ。おばあちゃんも高齢だった。高齢ということはずっとわかっていた。だけどずっと話しているわけにもいかないし、ずっと目に焼きつけようとか、無理やり思い出をつくろうとか、そういうことじゃなかったし、じゃあどういうことなんだ、と未だにわからない。結局テレビを見たり、せっかくの伊豆でも長々スマホをいじったり、なんとなく写真を撮ったり撮らなかったり、一緒にご飯を食べたりして過ごして。
人はいつか死んでしまうし、マロだっていつか、父母も、わたしも、いつか。必ず起こることだ。
いつか必ず起こることは、もう起こったこととおんなじ。だけど、納得できる理由とか、仕方ないと思える前後の流れとか、そういうものがどうしても欲しくなってしまう。子ども、若い人は亡くなっちゃだめ。中年でも高齢でも突然亡くなっちゃだめ。身近な人は突然じゃなくたってだめ。前後の流れがあったってだめ。だめだけど、起こることは起こってしまう。運命とか星回りとか縁とかタイミングとか遺伝子とかいろいろな理由で。悲しむことも縁。まだ起こっていないことも悲しい。いつかのためにマロの写真や動画を撮ることも悲しい。だけど実際にそのときが来たら、「わかってるだけじゃ意味なかったんだ」「覚悟なんて意味なかった」と思うくらい悲しむんだ。そこまでわかっていても、実感することとは別。

コ◻︎ナ禍で苦しむ人、支える人、不安な人、生活があやうい人、そんな人たちがいる中で「時間を持てあましてます」なんて本当は言えたもんじゃない。だけど、人の苦しみは今に始まったことじゃない。世界中のすべての人が笑って過ごせているのが確認できてから、やっと自分が笑えるような、そんな聖人じゃない。もともと人は苦しい。悩んでいる。公にしたり隠したりしながら。その大小も、他人との比較とは関係ない。コ◻︎ナの渦中でも虫に悩んだり、恋に悩んだり、ヒマに悩んだり。
画面越しに、遠い国のニュースを見る。事実を知り、心を痛める。私が心を痛めても、なにかが変わるだろうか?
おばあちゃんに何ができたか?マロになにができるか?自分と同じ、いつかなくなる人たちに、これから生まれる人たちに、なにができるか?
畳の上で寝そべって、なんだか大げさなことを書いている今も、たとえいつか何者かになっても、その問いは変わらない。

ただひとつ言えることは、マロが好き。友達が好き。自分も好きで、家族も好きになった。おばあちゃんも好き、伯母も好き、いとこも奥さんもいとこの子どもも好き。職場の人も好き。周りにいる人がみんな好き。

私は好きな人たちに対して、何かをしたり、何もできなかったりしながら、オードリーのラジオを聴いて生きています。

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