心の潔癖

私は潔癖症ではないと思っていたが、
そんなことはなかったのかもしれない。

おばあちゃんのことがあるまで、
いろんなことがいやだった。

でも、病室でおばあちゃんの姿を見てから、
些細なことはどうでもいいことだと思うようになった。

なんというか、“それどころじゃない”と思った。

“それどころじゃない”は、案外いい言葉かもしれない。

それどころじゃないから、
“もういいや、ポイッ”ができるようになった。


先々週、病院にむかう間の4時間ほど、
ずっとふたりで兄と話した。

ここさいきんは兄の存在がなんとなく強くいやで、
熟年離婚直前の妻みたいな態度をとっていた。

でも今回、母の邪魔が入らない兄妹の会話の
なんとスムーズだったことか。

兄は私とまったく価値観が違う。
真逆とも言っていい。
だけど、その考え方には、
聞けばちゃんと根拠があった。
ちゃんと根拠があったうえで、私と違うならば、
それは「I'm OK,You're OK」だ。

「なにを考えているかわからない人」を、
私たちは恐れる。
「言葉で説明できる能力」は、
少なくとも社会で信頼を受ける。

でも、他人に対して説明できるかどうかは、あとでいい。
まず自分に説明できること、それは社会のためではなく、
自分のためになる。


「私のこの感情はなんなのだ?」
と考え続け、いつかふと腑に落ちる表現に出会う。

わけのわからなかった感情に、
心から納得できる名前がつけられれば、
それはもう半分は解決できたようなものだ。

知りたいことに対し
「ピッタリな検索ワード」を見つけた瞬間の、
あの感じに近い。

解決というのは、問題を無くすことではなく、
自分の態度の取り方や、対処の方法を知れる、もう探せるということ。


「私のこの感情はなんなのだ?」

「そうか、そういうことだったのか…」

これを繰り返し、私は生きてきた。


「人は幸せになるために生きている」という言葉を、私はあるときまで漠然と「そうなのかもな~」と考えていた。
完全にしっくりきていたわけではない。
ただ、それを越える納得解にまだ出会っていなかった。

今の考えを残すために書いておきたい。

「人は幸せになるために生きている」と思って生きると、
逆説的にとてもつらくなる。
「じゃあ今幸せじゃない私の人生は、なんなの?」となるからだ。

幸せとは基本的に「満足」のことだと思っていて、
「満足」は「満腹感」と同じように、続かないものだ。

「続かないもの」を「目的」に置いたら、
つらくなるのは当然のことだ。


私は「大切な人を守るために強くなる、守れる方法を考えられる自分になること」が人生の今の目的。
そこに「嫌いな人」は対象に入らないから、聖人でも立派でもない。

そしてこの目的には、「自分の幸せ」はメインで入っていない。だから、「幸せになろう」としていたときより、とても楽だ。

「別に幸せにならなくてもいいんだ」と心から腑に落ちたとき、
私は本当に楽になった。


私たちはまず、「今生きていることそれ自体」で、
「生きることそのもの」をすでに達成し続けている状態にある。

そこに、
個人の納得解(「ああ、そういうことだったのか」)、
個人の目的「(私はこのために生きているのかもしれない)」という個性が加わるのだ。


どうしよう、この記事には自分にとってとても大切なことばかり書いてしまったかもしれない…

こんな27歳ペーペーの私が書いても言葉は上滑りだが、
誰かがそれぞれ自分の「納得解」と「目的」を暫定的にでも見つけたら、言語化できたら、教えてもらいたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?