見えている世界

あれだけこちらでも口頭でも友人たちにプッシュした、
書籍 #かみさまは小学5年生
ですが、実はあの時点で3分の1しか読んでいなくて(そこまでですでに超エキサイティングな内容だった)、でもやっと読み終わった。

最後まで読んだら…もっとすごかった。
やっぱり、信じる信じないというより、「あぁ、そうなんだなぁ」という感じ。

それがつまり信じてるということなのだろうけど、
信じる、という言葉を使うと、どうしても力が入っている感じに聞こえる。

個人が信じようが信じまいが関係なく、
あるものはあるし、ないものはない。

きっと一般的にも、
たとえば矛盾を3つ以上感じるものはまず信じられないだろうし、
今までの身体感覚からかけ離れていたり、
お金をたくさんとられたり、守らなくちゃいけない厳しいルールがあったりしたら、
そりゃ信じたくないだろう。
そして、そういうものを盲信する人を怖いと思うのだろう。

たとえば、お賽銭で身銭を切る行為は身近だ。お金を払うことの意味や、厳しいルールを守ることの意味は、理屈でも言える。
ただ、その理屈を誰がどういう目的で言っているか、それが誰かの利己的な理由だと話は違ってくる。(あとはそれぞれの哲学と言うしかない)

私は高校生くらいのとき、駅で声をかけられてある宗教の話を聞き、別れ際に「信じないと地獄に落ちますからね」と脅しのように言われた。
でもあれは、そういう解釈をしたひとりの信者が言っているだけであって、その宗教の全体の本質がそこにあるとは全く思わない。(でもその信者として発言するならもっと気をつけろよと思うけど…。)
おそらく信者を増やそうと(自分の思う幸せの輪を広げようと…)熱心に話して、微妙な顔で去ろうとする相手に、手っとり早く引き込もうとしたらついそういう発言になったんだろう。別に私に地獄に落ちてほしかったわけでもないだろうし、その人が悪い人なわけでもない。

どんな宗教も本来は、「人が生きやすく、幸せに暮らすため」に生まれる哲学であると思う。
それでもたくさんの信者が、それぞれの経験や思いで解釈し、それぞれの伝え方で歪んでくることも、ある意味では自然なことなのだろう。
ただでさえそうなのに、たとえば悪意(や偏った思考)とカリスマ性を持った人が利用してしまうと、さらに暴走することにもなってしまう。

でもそれは、それだけ宗教に人の思いと力があるということだ。

脱線してしまいましたが、
書籍「かみさまは小学5年生」は、
私にとって「今までの身体感覚と身近で矛盾も感じず、かかったお金は本代のみ、守るべき厳しいルールもない」本であり、「この通りだとしたら、超エキサイティング…!」な本であり、「そう思った方が生き方が楽になる、世界の見方がドン!と変わって人生が楽しくなる、苦しみや悲しみから大きな意味で救われる」本なのです。

そしてなにより、その考え方が「好き」だと思える。
なにかを信じるうえで本当に大切なのは、そこなのではないでしょうか。

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