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呼称の光と影

「毒親」も「HSP」も、これまで明確な形をもっていなかった事象に名前がついたことで、同じことを感じている人が他にもいたという、何にも代えがたい安心感を得られた人たちが、私も含めて増えた。

名前があるから検索ができる。似た人を見つけられる。

そしてさらに公になってきたところで、情報の雑味が加わり始める。

あの人は当てはまらないとか、この特徴はそうじゃないとか、身近にそういう人がいたけどこうだったとか。

たとえばLGBTの方々にもきっと似たようなことが先に起きていると思う。(「LGBT」も、今は呼称がどんどん変わっている。本当は4つだけにとどまらずもっと多様であるから。「名前」は当事者を救うためにあるべきで、マイノリティの中にマイノリティが生まれてしまうことのないように改称の努力があり、そうせざるを得ないことを強く感じる。)

共通意識をもつために名前が必要で、しかしそれだけではどうしても終わらない。その「名前」が中途半端に広まることで起きる弊害が、「浅い理解」だ。

これは時に、まっさらな無知よりもタチがわるい。そのうえで、誰にも絶対にある。たった二十数年間生きてきただけの私には知らない世界があまりにもたくさんあり、きっとこの先も「浅い理解」での発言で誰かを傷つけるだろう。人と出会っていく以上、それは避けられない。

毒親をもつ◯◯さん、HSP気質をもつ◯◯さん、それはわかりやすい紹介のため、意図的に単純化してあるもの。

大きくカテゴリーにわけたら同じくくりでも、ひとりひとりはすべて違う。そのことを、時々はきちんと思い出さないといけない。でも生活上、世の中のすべての人をひとりひとり理解しようなんて無理だ。


だからせめて、自分が深く知りたいと思った人のことは、傷つける覚悟と自覚をもったうえで、聞きたい。

「理解するための手がかり・きっかけ」でしかない、であるべき名前を、「逆に理解を妨げるもの」にしてしまわないように大切に使う。


世の中に自分と同じ人なんて絶対にいない、だけれども、だからこそ、「『自分がずっと思ってきたこと、感じてきたこと』を他人の口から聞く」という体験は、救いの具体そのものだ。


それと同じくらいか、それ以上に、「自分が大切に思う誰かに、自分のことをわかってもらう」。これは、これまで至上とされてきた「愛し愛されること」、以上の喜びと言っていいと思う。

 

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