「白い煮物が食べたい」お祖母ちゃんとの想い出はなし。
今はもう、請求書はPDFにして添付でおくっているけれど、数年前までは紙に印刷して郵送していました。
いつものように請求書を印刷していて、ふと
「どうせ紙を使うなら、
裏側が白紙のままじゃもったいないなぁ。
請求書って開封率100%だよね。
絶対見てもらえるよね」
と思い立ち、請求書のウラ側に
コラムのようなものを書いて送っていました。
そのデーターが出てきたので、載せます。請求書のウラ側に書いていたコラムのようなものをnoteに少しずつ書いこうと思っています。
▼2018年の9月に書いたもの。
20180922 請求書のウラ書き #1
「白い煮物が食べたい」忘れぬ想い出の味
私が中学生になる頃、祖母の物忘れが多くなり始め、我が家から徒歩五分のところに引っ越してきた。母が仕事でいないとき、祖母はテクテク歩いて家にきて、洗濯物を畳んだり、夕飯を作ったり、いつでも祖母と一緒にやった。一人でする家事は嫌だったけど、祖母の台所のコツや技を聞きながらする家事は楽しかった。この頃から私の役目は祖母とウチの2家族分の夕飯を作って届けることだった。
祖母は歯がほとんどないのに、入れ歯が合わなかったから、歯茎でつぶせるものしか食べられない。いつもお粥や柔らかく炊いたものを食べることが多かった。とろとろに柔らかく煮た鶏肉とか、ポタージュとか、人参もじゃがいももほろっ崩れちゃうくらい煮込んだシチューとか、肉じゃがでも大根でも祖母の家の分は、煮崩れる手前の柔らかーーく炊いたものを作って持っていく。
「なみちゃんはハイカラなものが作れてすごいねぇ」と褒めてくれ、美味しそうに食べていた。とうとう、祖母は物忘れがひどくなりすぎて、迷子になることが増えた。私と母の顔以外わからなくなった。祖母は入院することになった。その頃には私はもう、大人になっていて、就職し、車も持っていたから、仕事帰りに毎日寄った。私が顔をだすと、祖母はいそいそと帰り支度を始める。
なみちゃん、お家に帰ろう。
ばあちゃん、洗濯物取り込んでないとよ。
何回も何回も祖母は言う。何度も何度も、連れて帰りたくて私は胸が痛くなる。ばあちゃんがここに居たくないって、痛いほどわかるよ。私も入院してた時、早く帰りたくて、一秒でも早く病院から抜け出したかったから。でも、連れて帰ることもできないんだよ。私は祖母にかける言葉が見つからなくて、曖昧に笑うことしかできなかった。
ある日、祖母が私に言った。お家に帰ろう、ではなく、帰り支度を始めるわけでもなく、小さな声で、「なみちゃんの白い煮物が食べたい」と。白い煮物?イカの煮物?そんな弾力あるもん、ばあちゃん食べれんし…。カブの煮物や大根の煮物を持って行ったが、どうも違うらしい。
ふと、「もしかして」と思い立ち、煮崩れるまで柔らかく煮こんだ、いつものシチューを持って行くと、祖母の顔がぱぁっと嬉しそうに輝いた。
「なみちゃんは、ハイカラなものが作れてすごいねぇ」
見た目の良くないシチューを目の前に。いつか褒めてくれた言葉を、覚えて居たのか、思わず出たのかわからないけれど。あの時と同じように私に言った。
それから毎日、私はシチューを届けた。祖母は、ずっとシチューのことを「なみちゃんの白い煮物」と呼んだ。食べたことを忘れるから、白い煮物のリクエストは繰り返される。二人分のシチューを持って会社に出かけ、仕事が終わると病室で一緒に食べながら、会社や家族との他愛もない話をする。この時は忘れられるとわかっていても。
病院で出された食事にほとんど手をつけてなくて、ばあちゃん食欲がないんだなぁって日が続いた。配膳されたお粥にシチューを加え、バターを乗っけて給湯室のレンジで加熱してミルク粥みたいにしたら食べてくれた。夕飯がシチューだった日の翌朝、ミルク粥にして食べるのを楽しみにしてたことを知ってたから。
料理は愛情、なんて胃もたれしそうなこと思わない。
栄養素だけで頭で食べてもつまんない。
それでも料理は、記憶の奥の奥の深いところに残っていて人に生きる希望を与える不思議なものだ。何もかも忘れ行く祖母の記憶の中で、消えることのなかった白い煮物の味。失われることのない味覚の想い出の味。食の細くなってしまった祖母に少しでも元気になってほしくって、笑って欲しくってたくさんの野菜を細かく刻んでとろとろになるまで煮込んだスープ。祖母が間際まで口に運んでくれたもの。
食べ物は明日の未来を創るもの。
すべては「おいしい!」の笑顔のために。
これが私の料理の仕事の原点の話。
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