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#2 アーロン・ラッセル

Aaron Russell(愛称 Ron)
1993年6月4日生まれ
身長:205cm
ポジション:OH 
大学1年生まではMB(ただしそれまでのクラブチームでは後衛に下がってもリベロと交替せずにプレーし続けた)、大学2年時からOHに
現所属先:Diatec Trentino(🇮🇹 スーパーリーガ)
出身大学:Penn State University(PSU)
※一緒にプレーした期間はないけれど、アンダーソン、ホルトの後輩になる
(冒頭の写真はFIVBより)

USAVページ:
https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/Aaron-Russell
Wikipediaページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Aaron_Russell
Instagram:
https://www.instagram.com/a_a_ronrussell/?hl=en
Twitter:
https://twitter.com/FatRonRussell?s=17

ラッセルは男5人兄弟の2番目。
2歳の時に台所に自作ネットを張って15ヵ月上の兄ピーターと風船バレーをしていたのがキャリアの始まり(笑)。ラッセルの家には当時のビデオがあって、3歳のピーターが風船でラッセルにサーブを打とうとして「行くよ!アーロン、行くよ!」と言っているところや、ラッセルが風船を床に叩きつけるところが映っているとか。
それから外でバドミントンのネットを使ってバレーボールを楽しんだ後は、自分たちでチームを作り、まだ小中学生の頃に成人女性チームと試合をしたりしていた。
というのも、ラッセルのお父さんもお母さんもバレーボール経験者で、特にお父さんのスチュワートはPenn State University(PSU)でプレー、卒業後はビーチバレーボールへ転身し、グラス(草)バレーボールも楽しんだ。そのため、ピーターとラッセルがまだ幼かった頃は家族を連れてバレーボール旅行に出かけることが多かった。スチュワートはエリック・ルーカスとペアを組んでいて、ルーカスにもピーター、ラッセルと同年代の息子が2人いたため、トーナメントの合間にはお互いの子どもたちにバレーボールを教えていたとのこと。ちなみに、ラッセルの下の3人の弟たちも全員バレーボールを楽しんでいる。
ラッセルのお父さんによると、幼い頃にビーチバレーボールの試合に触れ、それを真似して遊ぶ機会がたくさんあったことが、思った以上にラッセルたちのバレーボールに対する知見を広げていたのではないか、とのこと。また、ラッセルは外にいるとすぐにバレーボールを持ってきて「パパ、やろう!」とプレーに誘っていたそう。
ラッセル自身は、自分のバレーボールにはお父さんの影響が大きく、お父さんから教えてもらった基本的な技術がベースになっていると語っている。

そうやって幼い頃からバレーボールに親しんできたラッセルだったが、バレーボールを本格的に始めたのは2008年、15歳の時。住んでいた地域にバレーボールのできるところがなかったため、代わりにバスケットボールや他のスポーツを楽しんだ。その中でも特にサッカーに夢中になり、クラブチームでも学校でもプレーしていた。
ラッセルのいたアメリカ東部メリーランド州は公立高校でのスポーツに男子バレーボールを採用しておらず、進学した高校でもバレーボールをすることができなかった。そのため高校ではサッカーを続け、GKとしてチームをメリーランド州ハワード郡で3回優勝に導く等貢献し、個人でも様々な賞を受賞した。
それでも、ラッセルが一番好きなスポーツはバレーボールだった。その頃サッカーにバーンアウト気味だったのもあって、15歳のラッセルはもっと別のこと、バレーボールがしたいとお父さんに言ったのだそう。

高校進学にあたってラッセルの両親は、やはり高校のチームで経験を積んでいった方が確実に上達できると考えて、バレーボールができるカトリック系の高校へ進学させるか、もしくはメリーランド州の中では数少ない男子バレーボールを採用しているモンゴメリー郡へ引っ越すか、と検討したことがあった。だがこのままここにいても、やり過ぎにならない範囲で十分な経験を与えることができるのではないかという結論に至った。
そうして2008年、1984年のロス五輪金メダリストのアルディス・バージンズが運営するクラブチームにピーター、ラッセル、そしてルーカスの2人の息子たちも入ることになる。そこではインドアとビーチの両方を経験。ラッセルのお父さんやルーカスもコーチングにあたり、彼らの上達に一役買った。

アメリカではスポーツはシーズン制を採っており、サッカーは秋(9月〜11月下旬)、バレーボールは冬(11月下旬〜3月上旬)がシーズンであるため、どちらもプレーことができる。
また、アメリカでは複数のスポーツをシーズンごとに楽しむことが一般的で、むしろそうすることを推奨されている。いろんなスポーツを体験することで様々な状況に遭遇し、強くなるし、技術や技能が相互のスポーツをそれぞれ補い合ってよりうまく身体を使うことができるようになるといわれている。
ラッセルも、高身長にもかかわらず素速いフットワークができるのはサッカーで培われたものだとPSUのパヴリク監督は話している。


ラッセルは地区で頭角を現すようになり、2010年春(16歳時)にはUSAのU19メンバーに選出される。そのときのU19メンバーは12名のうち西部のカリフォルニア出身が6名、東部からはラッセル1人だけだった(キャプテン・セッターはクリステンソン)。ラッセルは2010年4月4〜12日にメキシコで開催されたNORCECA Boy's Youth (U19)Championshipにおいてベストブロッカー賞を受賞する。
ちなみにこの大会で優勝したキューバには同じく当時16歳のレオン(現ポーランド代表)がいた。”ライオン・キング” と言われたレオンはベストスコアラー賞、ベストアタッカー賞、そしてMVPを受賞している。2位はUSA、3位はプエルトリコだった。
これによりラッセルは、将来のUSA代表へつながるUSAVの若手エリート養成コース、パイプラインにしっかりと乗ることになる。

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https://www.washingtonpost.com/sports/even-with-no-team-russells-a-star/2011/02/18/ABzMOpH_story.html

翌年アルゼンチンで開催されたユース(U19)世界選手権の体験も大きかったよう。この時にチームマネージャーだったトム・テイトは、ラッセルのお父さんがPSUに在籍していた時代のPSU監督だったという偶然も重なり、練習ではよくテイトに声をかけてもらった。その際にテイトが言ってくれるヒントがお父さんの言ってくれたことと同じだったり、ということもあったとのこと。

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( ↑ 2011年U19メンバー。数名は現在も代表や各国リーグで目にすることができる)

U19チームの監督としてラッセルを見ていたゲーリー・サトウは、当時ラッセルについて「これまでと同じペースで上達していけば、彼は国内におけるトップ選手の1人になれる」「ほとんどの少年たちは、ちゃんとした高校のチームでプレーし、ハイレベルではなかったとしてもクラブチームでもプレーしている。高校に男子バレーボールチームのない州から来て、エリートレベルでプレーできるのは珍しいことだ」と述べている。

https://www.washingtonpost.com/sports/aaron-russell-cant-play-high-school-volleyball-in-maryland-but-is-a-star-anyway/2011/02/18/ABfeVSQ_story.html


ラッセルはその年の秋、お父さんの卒業大学であるPSUに入学。先に1歳上の兄ピーターがPSUへ進学しており、やはりバレーボールに励んでいた。
PSUのパヴリク監督は「ラッセルをスカウトしたときから、ラッセルはMBよりもOHとしてプレーした方がよくなると思っていた」。1年目はチーム事情によりMBでのラッセルが必要だったためスイッチはなかったが、大学2年からその計画を進めることになる。それはラッセルにとって大きなチャレンジだったが、興味深い体験でもあった。「ゲームをこれまでとは違う見方で習得し直しているような感じだった」。
MBからOHへの転向で最もポイントになってくるのがレセプション。そのため、ラッセルはシーズン前に大学入学まで所属していたクラブチームを訪れ、レセプションの名手だったバージンズからレセプションの技術習得を学ぼうと、バージンズやお父さんに練習を付き合ってもらったそう。それがOH転向を助けてくれたと語っている。
また、ピーターもラッセルのOH転向を助けてくれた1人。2人は同じポジションになり、コートでのスポットを争うライバル関係になった。でも、最初にチーム内で練習試合をした際、レセプションができずにとても落ち込んでいたラッセルをピーターはなぐさめ、一緒にビデオを観てレセプション1つ1つに対してよかったところ、よくなかった点についてアドバイスをくれた。

https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/~/link.aspx?_id=E5C70BC6211A453198EEFCE1F8339CBF&_z=z

OHとして試合に出続けることで、ラッセルは徐々に技術も自信もついてくる。ピーターも冗談半分で「おまえはチームのベストMBだけど、OHとしては2番目だ」なんて言っていたのが、ラッセルが勤勉に練習に励みそれが結果として現れてくるうちに、だんだんそうも言っていられなくなってしまった。ラッセルはチームで最もボールが集まるアタッカーになり、それを決めてチームに最もポイントをもたらすトップスコアラーになっていった。
このスイッチについてラッセルは「自分がやっているポジション以上のものを他の誰かが自分に見ていてくれたというのはとても素晴らしいこと。それは、自分にはもっと何かができるということだから」と述べていて、バレーボールに対してバーンアウトすることを防いでくれた、とも。

ピーターもラッセルも、在学中はホームゲームでそれぞれマイク・アンダーソン賞を受賞している。


大学3年生になって迎えた2014年シーズン開幕戦の相手はUCLAだったが、そのUCLAの監督でUSA代表監督でもあるスパローから試合後に「今シーズン終了後はアナハイム(USAVの拠点となるアメリカン・スポーツ・センターがある地域)で代表と一緒に練習しないか」と声をかけられた。その年のワールドリーグメンバーに入ること、そして2016年のリオ五輪メンバー入りを目指して、他の選手たちと凌ぎを削ることになる。
2014年2月の段階では「自分は多分代表のセカンドチームに入ることになると思うけれど、今度の夏でいろんなことを経験し、翌年以降はワールドリーグのメンバー入りをしたい」と語っていたラッセルは、その年のワールドリーグではメンバーから外れたものの、その直前に開催された世界選手権の北中米予選にはメンバー入りし、代表デビューを飾っている。
翌年2015年のワールドリーグでは、前年の同大会での右膝前十字靭帯断裂により治療に専念することとなったプリディに替わってレギュラーに定着、サンダーと対角を組む現在の形がここから始まる。


パヴリク監督は、ラッセル在籍中によくラッセルをアンダーソンになぞらえて語ることが多かった。PSU、そしてパヴリク監督にとって、アンダーソンはホルトとともにPSUをNCAAチャンピオンに導き、その年のプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)を受賞した歴代最高の選手。そのアンダーソンもMBからOHに転向していたり、また、ほぼ同じ高さから繰り出され広角に打てるスパイク、コート内でのふるまい等からも、パブリク監督はラッセルにアンダーソンになれる可能性を見ていたよう。

実はパヴリク監督がピーターとラッセルに初めて出会ったのは、彼らが12〜13歳の頃。パヴリク監督がラッセルのお父さんの試合を観に行ったときのことで、子どもたちがバレーボールで遊んでいる姿を見て、このまま成長していけば何かが起こるかも…と思ったのだそう。
また、この記事には、ラッセルの人柄が伝わってくるエピソードが紹介されている。
ラッセルが4年生でキャプテンをやっていたとき、チームはロサンゼルスで2試合を終え、みんなでどこにごはんを食べに行くか、どうやってリラックスするか話をしていたら、そこにラッセルがやってきて「ねぇ、ユニフォームを洗う必要がある人がいたら僕の部屋に置いておいて。やっておくから」と言ったとか(笑)。

ピーターは大学卒業後プロの世界へ進み、ドイツ、ブンデスリーガのBühl等でプレー。現役引退後は地元に戻ってバレーボールクラブのコーチとして活動している。


ラッセルは大学卒業後の2015年ワールドリーグでポーランドを訪れた際に、ポーランドメディアからインタビューを受けた。
そこで訊かれた「小さい頃に好きだったバレーボール選手は?」という問いの答えは「言いたくない(笑)。なぜなら今夜その彼と戦わなくてはいけないから」。このインタビューの夜にはポーランドと対戦することになっていて、その試合の後で「好きだったバレーボール選手はバルトシュ・クレク」と教えてくれたとのこと。
また、シカゴでのポーランド戦では会場がポーランドファンに圧倒されていたことについても訊ねられると、「あの会場がいっぱいになっているところをこれまで見たことがなかったよ」と答えている(笑)。


2015年秋にはワールドカップで初来日。USAは(ちょっと棚ぼた的ながらも)この大会で優勝を果たし翌年リオ五輪の出場権を獲得する。
PSUのパヴリク監督がラッセルをよくアンダーソンになぞらえていたけれど、ラッセルはこのとき背格好からかファンに、だけじゃなくてDJにも、よくアンダーソンと間違われたそう(笑 4年後の今年はもう誰にも間違われなかったはず!)。女性からサインを求められたら、書く前に「僕が誰か知ってる?」と確認するようにしていたとか。「でも僕にはタトゥーがないよ(笑)」とラッセル(リオ五輪の後は左脇腹に五輪マークが入った)。

https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/~/link.aspx?_id=E5C70BC6211A453198EEFCE1F8339CBF&_z=z


ワールドカップ後、ラッセルはイタリアリーグ🇮🇹のPerugiaでプロとしてのキャリアをスタートさせる。
Perugiaでは選手にニックネームをつけるのだけれど、ラッセルはスパイダー(経緯不明)だった。


2016年、ラッセルはリオ五輪に出場。すべての試合でスターティングメンバーとなる。両親もブラジルまで駆けつけて観戦。

このときちょっとした因縁が勃発。予選のブラジル戦でラッセルは活躍しチームも3-1で勝利。その試合終了と同時に、ラッセルが右手人差し指を口元に当てるしぐさをした。それがブラジルファンに、自分たちの歓声やブーイングに対する当て付けだと解釈されてしまったのだった。その後しばらくブラジルファンからラッセルに対する非難が起こることになる。ラッセル自身はそれに言及することなく、リオ五輪の最後に優勝したブラジルに向けて「おめでとう」とインスタグラムにアップしたのみだった。

USAは準決勝でイタリアと対戦。セットカウント2-1とリードし、第4セットも22-19と決勝まであと3点というところで、イタリアのサイドアウト後、サーバーはザイツェフ。なかなかサイドアウトが取れずに2失点し22-22と同点にされる。そしてここからザイツェフに3連続エースを許し、このセットを逆転で取られてしまう。第5セット、息を吹き返したイタリアを再び押し返すことができないまま、USAはフルセットで破れた。
中1日で迎えた3位決定戦のロシア戦。明らかに疲弊して見えるラッセルはプレーに精彩を欠き、準決勝ではどんな状況でも絶対にメンバーチェンジのカードを切らなかったスパローが、この試合は第1セット終盤に早くもラッセル→プリディの交替に踏み切る。プリディはこの試合がリオ五輪の初出場で、そのプリディの大活躍によってUSAはフルセットの末に銅メダルを獲得する。
2年前にプリディが怪我をし、その空いたスポットに入ったのがラッセルで、怪我から復活したプリディがそのラッセルに替わって入ったリオ五輪の3位決定戦は、準決勝とともにUSAファン(筆者)にとっては忘れられない試合である。

ラッセルはリオ五輪で銅メダルを獲得した瞬間、コートに立っていなかった。そのときにやり残した(と思っているであろう)ことを来年の東京五輪で果たしてくれるのではないかと、USAファンとしては密かに願っているのだった。


Perugiaとは2019年までの契約だったラッセルだが、2018/2019シーズンの前にPerugiaのオーナー、ジーノ・シルチがレオンの獲得に乗り出し、その余波を受けて期間途中での契約解除となった。なかなか次のチームが見つからず、その間、次の移籍先として日本も候補に挙がる等したが、ラッセル自身はイタリアでプレーを続けたいと希望し、最終的に同じイタリアリーグのTrentinoが名乗りを上げてくれて、2018年秋からTrentinoでプレーしている。


最後に、ラッセルと奥さんケンダル・ピアースとの出会いについて。
2人はそれぞれUSAVの若手育成プログラム『ハイパフォーマンス』に選出され、高校時代にその練習で一緒になって仲よくなったが、特に連絡を取り合うわけではなかった。
その後、先にラッセルがPSUに入学、翌年ケンダルもPSUへ、そこで友達になる。同じ授業を受けることもあったけれど、ケンダルは最前列で真面目に授業を受けていた。特に1年生の間はしっかり勉強したかったし、ずっとバレーボールに囲まれて育ったのでバレーボールプレーヤーとは絶対にデートしたくなかったそう。一方ラッセルは授業中もノートに落書きばかり(笑)。それでもラッセルの方が成績がよかったのだとか。だんだんケンダルはラッセルに惹かれるようになっていったけれど、それはだめだとラッセルの誘いを何度も(10回ぐらい)断っていた。でもそれも時間の問題で、2人は付き合うように。
すぐにケンダルはお父さんのロバート・ピアースに電話し、彼氏ができたとラッセルの名前を告げると、なんとケンダルのお父さんとラッセルのお父さんはPSUで同時期にバレーボールをしていたチームメイトだったことが判明。なんとも数奇な運命の2人。
ケンダルのお父さんはPSUを卒業後プロ選手としてスイスでプレー。ケンダルはそこで生まれる。その後一家は故郷に戻り、ケンダルのお父さんはバレーボールクラブを運営。のちにアンダーソンがそこに入ってバレーボールをすることになる。のちにラッセルはそのアンダーソンになぞらえられ、間違えられるようになる(笑)。
このように、ラッセルの人生は常にPSUをめぐって動いているのであった。


最後の最後に…「日本のファンに」