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#3 テイラー・サンダー

Taylor Sander(愛称 Tay)
1992年3月17日生まれ
身長:196cm
ポジション:OH
現所属先:USAV
 ※2019/2020シーズンはロシア🇷🇺のDynamo Moscowと契約したが、夏に悪化した右肩の怪我により契約破棄となる
出身大学:Brigham Young University(BYU)
 ※2学年後輩のパッチとは1シーズン一緒にプレーした
(冒頭の写真はFIVBより)
利き手:左手
 ※サインは左手で、ボールを打つのは右手

USAVページ:
https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/Taylor-Sander
Wikipediaページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Taylor_Sander
 ※以前はInstagram、Twitterのアカウントを持っていたのだが、2018年6月に息子のアトリィくんが生まれて少ししてから「バレーボール以外の時間を家族に費やしたいと思って」自ら削除、以後サンダー自身はSNSをやっていない

サンダーは4歳上の姉と2歳下の弟(ブレンデン)を持つ3人きょうだいの真ん中。アメリカでも特にバレーボール、ビーチバレーボールがさかんな西部のカリフォルニア州ハンティントンビーチで育つ。
姉がバレーボールクラブでプレーしていたため、その練習によくついて行って見学したりボールを触ったりしていた。それが6歳のこと。でもその頃のサンダーにとっては、バスケットボールが最も好きなスポーツだった。
8歳のとき、姉の所属していたバレーボールクラブが初めて男子チームも作ることになり、サンダーに声がかかる。そこから本格的にバレーボールを始めることとなる。「自分はいつでも高く跳ぶことができた。それがずっと自分を助けてくれた」。

その後のサンダーのバレーボールに関する経歴は華々しいものばかりで、まさにエリートと呼ぶにふさわしい。
バスケットボールやウェイクボード、サーフィン、ゴルフそしてダンス等を楽しみながらも、高校のバレーボールチームやクラブチームで様々な成績を残し(カリフォルニア州で2年連続優勝等)、各個人賞を受賞(カリフォルニア州D3での2年連続最優秀選手賞、地区リーグでの2年連続MVP等)。持ち前のジャンプ力や運動神経を生かしてどんどんレベルを上げていった。
また、14歳から18歳まではジュニアのビーチバレーボール大会に出場し、毎年優勝している。

サンダーの両親はモルモン教の信者であり、サンダーもまたそうだった。そのため、モルモン教の大学であるBYUに小さい頃から憧れがあり、大きくなったら自分もこの大学に入りたいと思っていた。だから高校生のときBYUの他にもUCSBやUSC、Hawaii、UCI、LBSUといった各有名大学から声がかかっていたものの、迷うことなくBYUを選び入学する。

サンダーの華やかなバレーボール人生はBYUに入った後も続く。すぐにレギュラーに定着、1年生から各種個人賞を受賞、チーム記録も次々と塗り替えていく(詳細はTeamUSA、Wikipedeiaの個人ページへ。主なものでは、4年間優秀選手賞、4年生時は最優秀選手賞、カンファレンスでは毎年ほぼ各賞を受賞。記録としてはキル総本数(1,743本)、アタック総本数(3,464本)、1試合のエース数最多(9本)、エース総本数最多(182本)等々)。

サンダーを観にホームであるスミスフィールドハウスに足を運ぶ観客が増え、彼らからは「アイロンマン」や「サンドマン」といったあだ名で呼ばれたり「BYU歴代の中で最高の選手」「近い将来代表入りして世界でも名を馳せるようになるだろう」などと言われるようになる。

そんなサンダーの活躍を受け、チームも快進撃を続ける。

サンダーが3年時には1年にパッチも入り、順調に勝ちを積み重ねてNCAAチャンピオンシップトーナメントへ進出。準決勝ではラッセル兄弟のいるPSUにストレートで勝利し決勝へ、そこでUCIと対戦する。UCIは前年の2012年まで現USA監督のスパローが監督を務めたチームで、現フランス代表のティリや現USA代表のマクドネルらを擁し、2012年決勝ではクリステンソンがセッターをしていたUSCを破って優勝している。スパローは翌年から母校UCLAへ移り、アシスタントコーチだったニッフィンがそのまま監督に昇格、選手は半分以上がそのまま残っており、2013年の優勝候補の一角だった。それでもカンファレンスでの対戦はBYUの2戦2勝、BYUファンはチャンピオンシップ決勝でもBYUが勝利を納めて優勝するに違いないと期待した。
だが、結果は3-0でUCIが勝利し2連覇を達成。サンダーたちBYUにとっては苦い苦い敗戦となる。

https://www.heraldextra.com/sports/college/byu/volleyball/bid-in-ncaa-men-s-volleyball-title-game-turns-bitter/article_522371ae-b544-11e2-8f68-0019bb2963f4.html


2013年に最優秀新人賞を受賞し大きな注目を集めたパッチは、モルモン教のミッションのため翌年から大学を休学。BYUそしてサンダーは2014年こそNCAAチャンピオンシップトーナメント優勝を目指すが、トーナメント進出は果たしたものの、準決勝でセッターにショーを擁したスタンフォードにフルセットの末に敗退。結局サンダーはほとんどすべての賞を得ながらも、チャンピオンシップのタイトルだけは獲得することなく大学でのキャリアを終えることとなった。

ちなみにこの年優勝したのはジェスキーのいたLoyola-Chicago。Loyola-Chicagoは翌年も優勝し2連覇を果たしている。


エリートコースを歩んできたサンダーは、早い段階から注目を集めアンダーカテゴリーでも順当に代表入りをする。2008年、2009年はU19メンバーに、2010年、2011年はU21メンバーとしてそれぞれNORCECA、そして世界選手権に出場。

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(2009年U19世界選手権。USAは10位だった。16番がサンダー(キャプテン)、2番はクリステンソン、4番は現在ビーチバレーボール界で活躍しているテイラー・クラブ。また、このとき19番をつけているのは今季堺ブレイザーズでプレーしているマウリス・トレス。現在はプエルトリコ代表として国際試合で戦っているが、この頃はUSA代表として各大会へ出場していた。大学もNCAAのPepperdineへ進学している)

http://www.fivb.org/EN/Volleyball/Competitions/Youth/Men/2009/PhotoGallery.asp?Tourn=BY2009&No=3

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(2011年U21世界選手権。USAは4位と現時点において最高位の成績を残している(クリステンソンの髪型w))

http://www.fivb.org/EN/volleyball/competitions/Junior/Men/2011/Teams.asp?Tourn=MJ2011&Team=USA


それでも、この頃のサンダーはまだ将来プロ選手としてバレーボールを続けようとは思っていなかったそう。BYUでのプレーによって自信をつけていくうちに、だんだんその思いが強くなっていったとのこと。
U21世界選手権の翌年2012年にはNORCECAのPan American Cupに出場。チームを優勝に導き、20歳のサンダーもMVPを受賞。だがこの年のロンドン五輪に際しては、当時のUSA代表監督アラン・アイプ側から「選考の結果、OHの4人枠から外れた」というEメールを受け取る。この時のサンダーにとってそれはまったくの「想定内」だった。
翌2013年、代表監督がスパローに替わる。そのスパローの構想にはサンダーも入っていることがじかに伝えられ、この頃からサンダーはリオ五輪に出ることを自分のキャリアの中に想定し始めるようになる。ワールドリーグのワイドロスターにも初めて名前が載る。

この年のワールドリーグに出場することはなかったが、翌2014年、NCAAチャンピオンシップのタイトルを獲得できないまま5月初旬に大学でのキャリアを終えたサンダーは、そのすぐ後に代表練習に参加、そしてワールドリーグで鮮やかな代表デビューを飾る。22歳のサンダーはチームの優勝に貢献、自らもMVPとベストOH賞を受賞。この時に披露されたサンダーのbickはここから現在までのUSAを象徴するもので、前年に代表入りしたクリステンソンとともに彼ら若手の台頭はUSAにとってまさに明るい未来を指し示すものとなった。


サンダーはこの年イタリアリーグ🇮🇹のVeronaと契約。秋からプロ生活をスタートさせ、Veronaで2年間プレーする。契約時に、なぜ他にも声がかかっていたのにVeronaを選んだのかと訊かれた際には「監督がジャーニだから」と答えている(ジェスキーは惜しくもVeronaですれ違いだったが、現在はホルト、クリステンソン、アンダーソンがジャーニのもとでプレーしていたりで、現USA代表選手は何かとジャーニと縁がある)。


代表では翌年にラッセル、ジェスキーが加入。新人としてのびのびプレーしていたサンダーもたった1年でルーキーではなくなり、先輩OHとして早くもチームを引っ張る役回りとなっていく。
2015年秋にはワールドカップで優勝。この2年間が現体制でのUSA、サンダーにとって最も好成績を残した期間となる。


翌2016年。リオ五輪を6週間後に控えた6月18日、ワールドリーグでブラジルを訪れていたUSAメンバーは、ブラジルに敗れた日の夜、監督、コーチ陣からホテルの一室に集められる。そこで、7月中旬にリオ五輪のメンバーを発表するつもりだったが、今から1時間後にそれを発表すると伝えられた。そうして1人ずつ、メンバー入りを果たし再びブラジル行きの航空券を手にできるのかどうかを聞かされることとなった。サンダーはメンバーに選ばれ、これが初めての五輪出場となる(それはサンダーだけではなく、3大会連続出場のリー、2大会連続出場のアンダーソン以外はすべての選手がリオが五輪初出場だった)。

リオ五輪のUSAはまさにジェットコースター模様で、初戦のカナダ戦をいきなり0-3で落とす。この試合の総得点数が5点とサンダーの調子がなかなか上がらず、自身でも「緊張なのか何だったのかよくわからない。カナダが予想外のことをしてきたわけではなく、自分たちサイドの問題。自分たちのいつものプレーができなかった。初めての五輪という重圧もあっただろうし、景色が思っていた以上に壮観だったのもあった」と。また「レセプションはよかったけれど、アタック時の選択がよくなかった、それは自分の責任。この経験から学んで次に生かしたい」と試合後に述べた。スパローもサンダーについて「レセプションはよかったし、彼はいいパサーになりつつある。でも今日はサーブが機能せず(それはチーム全体がそうだったが)彼のアタックもよくなかった。この後で彼とそのことについて話をしなくてはいけないし、彼がこれをどう克服していくかを見ていきたい。私たち全員がこの逆境を乗り越えなければならない」と語った。

だが次戦のイタリアにも1-3で負け、USAのリオ五輪はこのまま予選ラウンドで終わってしまうのかと思われたりもしたが、この間、選手たちだけでミーティングを重ね、お互い厳しい意見を出し合って激しく議論。サンダーはビデオで自分のプレーを振り返り、何が悪かったか検証したとのこと。そうしてするべきことが明確になったサンダーたちは自信も取り戻し、その後のブラジル戦で復活(3-1。サンダーはこの試合について「自分たちはゾーンに入っていた」と)、フランス戦(3-1)、メキシコ戦(3-0)にも勝利しプールAの3位で決勝トーナメントへ。
この時、E. ショージはサンダーのことを「彼はこうなりがちなところがある。調子が悪くてベストのパフォーマンスを出せない時があっても、大事な局面ではしっかり戻ってきて最大限の力を発揮してくれる。彼は若く、学びの最中で、まだ彼のピークは来ていないと思う」と語っている。

準々決勝ではポーランドに勝って(3-0)進んだ準決勝。それがあの悪夢のイタリア戦。

そしてロシアとの3位決定戦。サンダーはプリディを称え、「とてもタフな大会だったけれど、メダルを獲得して終われたことはよかった。自分たちは若い選手が多く、この経験を今後に生かしていけるのは素晴らしいこと。これからがまた楽しみ」と振り返った。


とはいえサンダーもまた、ずっとバレーボールが中心だった生活に疲れを感じていたよう。リオ五輪が始まる前に、秋からは中国リーグ🇨🇳の北京へ移籍することを発表した。Veronaとの契約があと1年残っていたにもかかわらず中国行きを決めたのは、中国リーグの期間が5ヵ月間と短いため心身への負担が少なく、家族との時間も多く持てるから(サンダーは前年2015年7月にレイチェルと結婚している)で、大学からほぼずっと休みなくバレーボールをしてきて疲れている、休みがほしいということだった。


中国で比較的ゆっくりと過ごしリフレッシュしたサンダーは、翌2017年秋にはクリステンソンのいるLubeと契約、イタリアリーグ🇮🇹へ戻り1シーズンそこでプレーする。
その後は2018年からブラジルリーグ🇧🇷のSada Cruzeiroへ。Lubeに移籍となった現ブラジル代表レアルと入れ替わりという形になった。


クビアクの持つ他の揉めごとエピソードと比べるとあまり目立ってはいないけれど、サンダーは実はクビアクとやり合っている選手の1人でもある。
2017年ワールドリーグでは、ポーランドホームのカトヴィツェで対戦した際にクビアクからの挑発を受け、サンダーもちょびっと交戦(他と比べるとほんとちょびっとだけ)。両選手ともに試合後ポーランドメディアからそのことについて訊かれている。
サンダーは「クビアクは試合中に相手を挑発するのが好きで、コーチたちには『関わり合いになるな』と言われている。でも時には自分たちのために応じることも必要」と。「今回のことは特に個人的なことでもなく、試合後は話もした。自分はクビアクを尊敬しているし、クビアクもこちらに敬意を持ってくれていると思う。お互いチームが勝つためにベストを尽くしただけのこと」。クビアクも「彼も自分も勝ちたかっただけ。時にはこういうことも起こる」。
コート上での熱量や態度というところで2人は似ていると思うかと訊かれると、サンダーは「何も言えない。あなたたちが評価すること」、クビアクは「ネットの向こう側にいる選手のことを自分と比べるべき相手だと思って見ていない」と答えている。

この2人、2018年の世界選手権でも同じようなことになった。試合中に明らかに挑発してくるクビアクに、サンダーは感情的に反応してしまい、調子を狂わされたようなところがあった。
試合後、今度は当事者2人ではなくクビアクのお父さんが記者のインタビューに答えた。記者から「クビアクはネットの下で相手を挑発することについて『特定のスキル。ある選手のプレーの質を下げることで相手のバランスを崩すためにやる』と言っていたが、それについてどう思うか?」と訊ねられたお父さんは「もしライバルのプレーが貧相なものだったら、息子は挑発する必要がない。でも、相手がいいプレーをしていてそれを止めることができないのであれば、そうする価値がある。相手をまっすぐに見つめ(睨み)、意気消沈させ、相手の注意を何か別のことに向けさせなければならない。世界選手権の準決勝アメリカ戦で息子はサンダーにそれをした。そうしてサンダーのパフォーマンスは落ちた」と回答。
その影響もあってかなくてか、ここでもUSAはポーランドにフルセット負けを喫し、またもや決勝進出を逃してしまう。その日の夜、サンダーはなかなか眠ることができなかったとのこと。

3位決定戦ではセルビアに3-1で勝利し、リオ五輪、この年のVNLに続いて銅メダルを獲得する。個人的にはこの勝利の後にインタビューを受けていたアンダーソン、そしてサンダーとラッセルが目を赤くして泣いていたのが印象的だった。彼らはリオ五輪のあの準決勝での敗戦でも、銅メダル獲得の時でも人前で泣かなかった。そこからずっと引きずっていたものがあったのか、もしくはこの世界選手権はOHがサンダー、ラッセル、ラングロイスの3人だけしか登録されておらず実質サンダーとラッセルが試合に出続けなければならない状況だったため、そういった重圧もあったのだろうか等いろいろ思いを巡らせてしまう涙だった。


また、サンダーは他の多くのバレーボール選手がそうであるように、結構怪我に見舞われている。これまで長期離脱はなかったが、騙し騙しプレーを続けてきたという感じが強い(その点アンダーソンの故障の少なさは本当に素晴らしいと思う)。2015年のワールドリーグでは足の脛を骨折、その年の暮れにはPerugia戦でブロックに跳んだ際、OPアタナシエヴィッチのスパイクがサンダーの頭部に直撃、首にカラーを巻かれてストレッチャーで運ばれ、その後数試合は欠場するということもあった。2016年3月は足首捻挫、2017年9月のグラチャンの時には右大腿部を痛めていた。それはしばらく尾を引いて、その後のLubeでのパフォーマンスにも影響を与えた。2018年ワールドリーグでは右膝を負傷している。

そして2019年、サンダーはVNLの途中で右肩を痛めてしまう。それでもVNLファイナルズに出場。初の地元開催で金メダルを狙いに行った大会だったが、念願の決勝には進んだもののそこで新生ロシアに破れた。
8月の東京五輪予選。サンダーはキャプテンとしてオランダへ向かったが、一度も試合に出ることはなかった。試合前のスパイク練習でも一度もフルスイングを見せることはなく、右肩の状態が相当悪いのではないかと思われた。
9月に入ると、その予想どおり、すでに移籍が決まっていたロシアリーグ🇷🇺のDynamo Moscowから、東京五輪予選前の練習中に悪化したサンダーの右肩の状態が思わしくなく、手術とそれに続く長いリハビリが必要になったために契約は取りやめになったと発表された(サンダーはSada Cruzeiroと2年契約だったのだが、Dynamo Moscowからいい話が来たためにそちらへ行くことにした、でもブラジルはとてもよかったのでまた戻ってきたい、と語っていた)。

そのため、10月に日本で開催されたワールドカップにも来日しなかった。
ただ、サンダー側からの発表はいまだになく、スパローも9月にラジオ番組に出演した際には「公に話していいかわからない」と明言を避けた。SNSを通して、アナハイムにあるUSAVの拠点アメリカン・スポーツ・センターでトレーニングに励む姿や家族との時間を楽しんでいる様子をたまに目にするぐらいで、現在の状況や詳細は不明のままである。
ファンとしてはとても気がかりではあるが、リオ五輪、そして2018年世界選手権での経験をサンダーがどのように東京五輪で昇華させるのか、あの華麗なbickとともにぜひとも見届けたい心境である。