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#20 デイヴィッド・スミス

David Smith
1985年5月15日生まれ(現在36歳)
身長:201cm
ポジション:MB
現所属先:ZAKSA Kedziezyn-Kozie(🇵🇱 PlusLiga)
出身大学:University of California Irvine(UCI)
 ※大学時代の監督は現USAV監督ジョン・スパロー
   当時のセッターは現USAVアシスタントコーチ ブライアン・ソーントン
利き手:右手
(冒頭の写真はFIVB公式より)

USAVページ:
https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/david-smith
Wikipediaページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Smith_(volleyball)
Instagram:
https://www.instagram.com/davidmsmith15/
Twitter:
https://twitter.com/davidmsmith15


USAの試合がテレビで放映されると「補聴器をつけてバレーボールをしている選手がいる」と話題になることがよくある。両耳に補聴器をつけてプレーしているのはデイヴィッド・スミス。彼のプレーを見て興味を抱いた方の参考にしていただけたらと思い、今回は主に彼の聴覚障害とバレーボールに焦点を絞って翻訳したものを抜粋し、まとめることにした。

https://sport.business-gazeta.ru/article/227415

デイヴィッドは生まれつき耳がほとんど聴こえず、聴力の90%を失っている。コート上では、スミスは常に補聴器を装着しているが、第1セットが終わる前に汗で補聴器を外してしまうことが多いと認める。また、BGMや観客席の轟音などのバックグラウンドノイズが多く、チームメイトとのコミュニケーションをうまく取ることができなくなる。読唇術やジェスチャー、ゲームの勘やワークが役に立つ。対処しなければならないことがたくさんある。

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元USA代表監督のアラン・ナイプは「デイヴィッドのおかげで、私たちは仕事上の問題を抱えることはあまりなかった」と言う。「彼は決して見下したような態度を要求せず、チームの重荷になることもなかった。彼はいつも自身の聴覚障害を可能な限り克服することができた普通の人だった」

とはいえ、デイヴィッドの障害が影響することもある。例えば、セッターがラリーの前にMBも絡むコンビネーションプレーをオーダーした場合は、必ずそれをプレーしなければならない。「もはやキャンセルの可能性はない」。現USA代表監督のジョン・スパローはこれを「スミス・ルール」と呼んでいる。

バレーボール選手のスミスを発見したのはスパローだった。学生時代の彼を見つけ、その運動能力と勤勉さに感銘を受けた。「デイヴィッドは、まだプロの選手ではなかった頃から、バレーボールに対するプロとしての姿勢を持っていた」とスパローは言う。UCSBではなく、自分が当時コーチをしていたUCIのキャンパスに来るようスミスを説得した。

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スミスがバレーボールを始めたのは9th Grade(中学3年生)になってからで、バレーボールとしてはかなり遅かったが、スパローの指導のもと素晴らしい進化を遂げた。「ジョンがUCIに呼んでくれてよかった。自分が今のようなバレーボール選手になれたのは、彼のおかげなんだ」とデイヴィッドは認める。2007年にはUCIがNCAAで初優勝を果たし、スミスはオールトーナメントチームに選ばれた。ブライアン・ソーントンとジェイソン・ジャブロンスキーもこのチームからUSA代表に選ばれたが、スミスはオリンピックに2回出場し(※東京五輪で3回出場となった)最も活躍した。聴覚障害者がオリンピックに出場した例は17件あるが、バレーボール選手として出場したのはスミスが初めてだった。

「デイヴィッドはゲームIQが高く、素晴らしいチームメイトでコーチングしやすい人。そして、彼の一番の魅力はその決断力」と語るナイプは、スミスをロンドン五輪に連れて行ったが、USAは準々決勝でイタリアに敗れた。

「子供の頃、親が夏と冬のオリンピックのためにケーブルTVを契約していたのを覚えている。特別な大会で観戦するのは大好きだったが、14歳の時には自分がその場にいるとは想像もしていなかった」とデイヴィッドは振り返り、家族がいなければ成功しなかっただろうと語っている。「いつも自分は違うと思っていた。でも両親は、私が他の子どもたちと一緒に勉強したり、スポーツをしたり、普通の生活を送れるようにあらゆる努力をしてくれた」。息子がこのような仕事に就くことを想像できたかと訊かれると、父リック・スミスは「息子がバレーボールに向いているとは思っていたが、ここまでとは思わなかった」と苦笑いするだけだった。

USAチームで成功を収めた後、スミスは2010年ヨーロッパで勝利を掴み取った。Unicajaではスペインリーグで銀メダルを獲得し、その後のToursではフランスリーグを4回制覇し、2016年からはポーランドリーグでプレー、RadomとZawiercieのユニフォームを着てプレーしてきた。来季はResoviaでプレーする(2018年)。

2016年、スミスはリオ五輪で、USAがロシアから奪い取った銅メダルを持ち帰った。デイヴィッド・リーやマックスウェル・ホルトの控え選手として大会に参加していたデイヴィッドは、コートに登場する回数は少なかったが、その働きぶりはこのメダルにふさわしいものだった。2018年のVNLでは、USAのキャプテンを務めた。聴覚障害者にとっては、スポーツでも人生でも、夢への道のりにおいてこの障害が十分に克服できるものであることを示す一つの例となった。

「彼は本当にバレーボールを愛している。有名になったりお金を稼いだりするためにプレーすることはない。彼は自分のやることが好きだからプレーしている」と妻ケリーはNBCに語っている。デイヴィッドの両親のように、彼女は彼の聴覚障害を不利なものとは考えず、彼の一部であると考えている。

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「この試練がなかったら、今の彼はなかったと思う」とケリーは確信している。「それが彼をより敏感にさせる。もし『あなたがすべてを変えることができ、明日には彼に完璧な聴力を与えられる』と言われても、私がそれに同意するかどうかわからない。なぜなら、それは彼をまったく別の人間にしてしまうから」

夫妻は現在、息子のコーエンを育てており、新たな仲間を期待している。強力な補聴器のおかげで、デイヴィッドは2012年に生まれた赤ちゃんの初めての泣き声を聴くことができた。現代の技術により、デイヴィッドは日常生活の中で今まで聴こえなかった音を聴くことができるようになった。「父と息子の関係は信じられないほど素晴らしいものだ」とデイヴィッドは言う。「そして、その関係を促進させるのがコミュニケーションなんだ」。


以下はスミス自身のインスタグラムの投稿から。

プロバレーボール選手としての長年の活動の中で、私は他の聴覚障害者から数え切れないほどのDMを受け取り、彼らのストーリーをシェアしてもらったり、聴覚障害を持つアスリートとしての私の経験について質問を受けたりしてきた。これから数週間にわたり、聴覚障害者としての私の個人的な旅を紹介していきたいと思っている。私が聴覚障害者としてどのように立ち向かい、適応し、奮闘し、時には勝利を収めるのかを垣間見ることができるような考えやストーリーを集めた。バレーボールが私の人生の大きな部分を占めているので、多くの話は私のスポーツの旅に関連しているが、家族や友人との関係など、私の人生のより普通の部分にも触れている。
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初めに、私の聴覚障害について説明したい。私は生まれつき両耳に重度の難聴を抱えている。原因はおそらく聴神経および中耳の損傷もしくは発達不良が重なったものと思われる。補聴器がないと、「通常の」デシベルの10~20%しか聴こえない。私は3歳の頃から耳掛け型の補聴器をつけている。日常会話では、読唇術にかなり頼っている。つまり、視覚的、聴覚的な手がかりを使って会話を聴くため、会話中は話している人の顔を見ることができる状況が必要になる。私にとって、聴覚障害のない人生がどういうものかはわからない。私の人生にはいつも「雲」があるけれど、空に雲があるからといって、太陽やそのまわりの澄んだ青空が見えないわけではないということを学んだ。


今日(12月3日)は国際障害者デーということで、私の障害を持つ子どもとしての人生を少し紹介したいと思う。聴覚障害を持って生まれたことは、時に困難なことではあったが、それを受け入れて最大限努力し、自分を抑え込まないようにするのは自分次第だといつも思っていた。とても「ノーマルな」子ども時代を過ごしたと思う。小学校3年生からは公立学校に通い、それ以後も常にそうだったように、聴覚障害のある子どもは私一人だけで、私以外の全員は健聴者という環境だった。4年生までは言語療法を受け、苦手な音(主にsやshなどの柔らかい音)に取り組むのを助けてもらった。授業では、先生が装着するマイクと接続された特別な補聴器をつけて、読唇術ができるようにいつも最前列に座っていた。私をみんなと隔てた最大の点は、学校の映画の日や集会が嫌いだったこと。なぜなら、台詞についていくことができなかったから。
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でも、スポーツは私にとって素晴らしく平等だった。両親は、私がスポーツが好きなことを早い時期からよくわかっていて、いろいろなチームに参加することを奨励してくれた。5歳の時にサッカーを始め、他にも野球、バスケットボール、陸上、そしてバレーボールを経験した。チームメイトは、自分たちのチームに耳の聴こえない子が入ってきて少し不安だったかもしれない。でも、ひとたび私が彼らの中でベストな選手と一緒にプレーできることを示すと、みんなはすぐにそのことを忘れて、私をノーマルな子どものように扱ってくれた。一般的なコーチがよく言う「笛を聴くまでプレーし続けろ」というマントラは、自分のモットーになった。そして笛の音が聴こえない間は、絶対にプレーをやめなかった。私は、審判が笛を吹いた後に取った点数の最多記録保持者だと確信している。
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私はみんなから、なぜ彼はコーチや審判がプレーを止めるようにと笛を吹いた後もプレーを続けたんだろう、と困惑してじっと見つめられるような子どもでいたくはなかった。それは恥ずかしかったし、元々シャイで内向的な子どもだったので、過大な注目は集めたくなかった。でも、好きなスポーツを続ける唯一の方法は、恥ずかしい気持ちを押し殺して、時々そのようなことが起こる瞬間を受け入れることだった。今でも、笛が聴こえずプレーを続けることは時々起こる。だけど、それに悩まされず、気にしないでいることを学んだ。


私は子どもの頃からスポーツをしてきて、コートでの最大の課題は、補聴器が汗で使えなくならないようにすることだとすぐに学んだ。一度に一つの補聴器しか持っていなかった(補聴器は高価なものなのだ!)ので、補聴器が機能し続けるようにいろんな工夫をしてきた。補聴器をラップで包んだり、汗を防ぐためにリストバンドやヘッドバンドをつけたり、シャツで耳の後ろの汗を拭いたりと、無限のルーチンを試した。
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それでも残念なことに、そのような努力が実を結ばず、補聴器が汗だくになって機能しなくなってしまうことがあった。私の「通常の」聴力の世界は、突然、不安なほどにストップし、突然、私は完全な静寂の中に立つ。その間、他の人たちは何事もなかったかのようにプレーしていた。ただ、一人だけ気がついた人がいた。私の父だ。父はいつも補聴器が切れた瞬間を特定できると言っていたが、それは私がプレーヤーとして変わったから。ボールを追いかけるような、おおらかで幸せで元気な子どもではなく、私は臆病な自分に戻ってしまった。何かをやり損なったり恥ずかしいミスをして注目を浴びるのが怖くて、プレーから遠ざかった。
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パフォーマンスの低下を補聴器のせいにするのではなく、静寂の中でも適応してプレーすることを学ばなければならなかった。補聴器が壊れるかどうかではなく、いつ壊れるかが問題だった。私は頭を回転し続ける方法を学び始めた。目を動かし続ける習慣に頼り、失った聴覚的手がかりを補うために視覚的手がかりを探した。聴覚の完璧な代わりにはならないが、自信を持つことができ、聴覚があってもなくても、よりいいチームメイトになることができた。


補聴器をつけてスポーツをする際によくある質問は「ボールが耳に当たったらどうなるの?」というもの。それはもちろん痛い!でも幸いなことに、私の30年以上の経験の中で、耳に当たったことも、補聴器に直接影響を与えるほど強く当たったことも、数えるほどしか思い出せない。
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その一つは2013年のフランス戦。ブロックに跳んだ際に、ボールが額に直撃した。通常このような場合はボールが跳ね返り、私は補聴器を調整して次のプレーに移る。でもこの時は、補聴器がイヤモールドから外れてコートに飛んでいってしまった。私は、誰かが誤って踏んでしまう前に、すぐに駆け寄って補聴器を掴んだ。その時に初めて、まだプレー中だったことに気がついた。拾った補聴器を手の中に握りしめたまま、ネット際に戻って再びブロックの準備をした。相手セッターがボールを逆サイドにセットしたので、私は片手を開き、もう片方の手はしっかりと握りしめた状態でブロックに臨んだが、これは必ずしも理想的なブロックのやり方ではなかった。
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ブロックタッチを取ってボールを自陣にキープしたところで、もう一つまた別の問題があることに気づいた。スパイクを打つ準備をしなければいけないのだが、補聴器を持ったままではできない。そこで、助走に下がって攻撃の準備をしながら、素速く口を開けて、手に持っていた補聴器を口の中に放り込んだ。それでもまだラリーは終わらず、私は補聴器を口の中でガタガタ鳴らしながら、再びブロックの準備をしなければならなかった。フランスがようやくボールを決めると、私はすぐに補聴器を吐き出し、サイドラインに走っていって混乱している監督(スパロー)に壊れた補聴器を渡してから、次のサイドアウトの準備に戻った。幸いなことに、この小さな補聴器はかなりタフな奴で、試合後には再び機能するようになっていた。


(こちらはUSAでのチームメイト、エリック・ショージのYouTubeチャンネルでの動画にゲストとして出演した時のもの)

私の耳が聴こえないことについて、関心を寄せてくれること、そこから何かを学ぼうとしてくれることが嬉しい。私は生まれた時から耳が聴こえなかったため、ずっと補聴器と一緒で、自分の人生を補聴器と切り離すことはできない。小学校からずっと健聴者の学校で過ごしてきて、原家族も現家族も全員聴こえる人たちだから、聴覚障害者のコミュニティに入ったことがない。だから、小学校からの過程は間違いなく挑戦だった、聴覚障害を持つ子どもはその中で自分一人だったから。重度の聴覚障害を持つ者として、プロの世界でプレーするおそらく初めての人間だと思う。それは自分にとって適応を学ぶことだった。他の人生のあり方を知らないので、自分について説明しようとするのは変な感じがする。耳が聴こえないことが、自分が愛し、やりたいことの妨げにならないように、できる限り最適応したし、最大限努力した。聴覚障害を持ちながらバレーボールで成功したけれど、聴覚障害は自分自身や他の誰かの障害になるのではなく、ただの違い。みんな自分なりのやり方を見つける必要があると思う。

エリック・ショージ「USAには一つのちょっとした適応がある。スミスは試合中に、チームメイトの叫び声や金切り声、コールが聴こえないためにルールがある」と。スミス「UCI時代に当時の監督だったスパローが作ったルールで、ディヴィッド・スミス・ルールと名付けたんだけど、私は読唇に多くを頼っていて、会話は相手の口が見えるのでやりやすいんだけど、バレーボールのコートではボールを見ないといけないし、5人のチームメイト全員を見ることはできない。だから、ボールが空中にある時に、それを自分が取るのがベストだと自身の経験から感じたら、大声を出して取りに行く、そしたら他の選手はどかなければいけない」。

エリック「スミスの非常に優れたところは、ボールコントロールのよさ。MBのボールコントロールはゲームにとってとても重要。彼はそれが素晴らしいので、大声が聴こえたら信頼してそこを離れられる」。スミス「それが自分の適応の仕方。他の選手のコールを聴くことができないなら、代わりにボールコントロールの優れたMBになる。それでみんなが信頼してくれて、ショートサーブやフリーボールを自分に取らせてくれる。君からボールを奪う人を嫌いなのは知ってるけど」と冗談を言われたエリック「ノーノー!」と否定しつつ、「聴覚の85%を失っているスミスが、オリンピックに3回出場するという事実に鳥肌が立つ」と話している。