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A Ice

氷の世界のように、ここは冷え切っている。
感情の波にさらわれず、すべてが無口で音もなく。
ここが「ふるさと」だと、私は言えるのか?

氷の世界の中で、私はただひたすらに息をする。
鼓動は一定のリズムを、交感神経と副交感神経はバランスを保つ。
先走る情緒もなく、理性がすべてを制御する。
なのにここにいる意味は分からない。

イヤホンに閉ざされた氷の世界で、私は生きていた。
電子音の響くこの世界に、異物が投入される。
振り返ると、きれいな雫型の水滴が落とされる。
綺麗な丸みを、私は初めて見た。
その水滴の向こうに映るあなたを、私は初めて見た。
その瞬間、理性は吹き飛ばされた。

アナログ世界は、私には理解できないもので。
利益のためだけにおこるすれ違いも、愛情の果てのすれ違いも、
全部が解読不能コードのようだった。
でもみんな一生懸命に生きていて、私はびっくりする。
鼓動は一定のリズムを刻まず、交感神経は度を越していく。
こんなにも温度が高い世界を、私は知らない。

誰もいない四両編成電車の一両目、向かい合って座る二人の姿。
「この世界に居たら溶けてしまうわ」
 イヤホンで耳をふさぎながら私は話す。
「だからさよならだよ」
 あなたは何も言わず、ただ窓の外で流れていく風景を見つめている。
「戻らなきゃ、ふるさとに」
 私は知らなかった。
「帰らなきゃ」
 熱すぎる。ここは暑すぎる。
 火照るからだを私はどうしようもできないから。
 あの氷の世界に帰って、メンテナンスを受けなければ。
 さっきから鼓動が早い。
 胸の奥でチクリと痛みを感じた。
 どうやらここまで私は壊れていたようだ。
 胸に針が刺さっているなんて、早く治さなきゃ。

頬に、水滴が零れ落ちた。
あの、きれいな丸みを帯びた雫型が、私の中にあったなんて。

「消えてしまわないで」
 あなたは立ち上がって、私の頬に伝う水滴に口づける。

私はあなたの瞳を見る。
私の顔を認識する。
涙というものを、私は初めて見た。
あなたは、笑っていた。
笑顔というものを、私は知らなかった。

冷え切ったこの世界は、二進数で埋め尽くされいる。
なのに今も活動を続けている。
私もそんな世界の中で、今日も生きている。
鼓動は一定のリズムを、交感神経と副交感神経はバランスを、保ちながら。
息をすると白く濁って空に溶けていく。
あの時に感じた熱など、忘れてしまっている。
けれど、あなたに口づけられた頬は、いまだに熱を帯びている。