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宙組の『エリザベート』(役替わりB) だが、それは恋ではない

◎10月2日(日)15時30分

ルドルフ*蒼羽 りく エルマー*桜木 みなと シュテファン*澄輝 さやと


『エリザベート』は魔物だ。

「計画通り上手く行くはずがない」と、劇中、ルキーニが言うけれど、まったく、そのとおり! 

「魔」についての物語だからだろうか。演者がどんなに計画を練っても、その通りにいくような作品ではない。トート然り、シシィ然り、フランツだってルドルフだってそう。結局、その役に身を投じるしかないのだと思った。

ルキーニだけはその限りではないと思うのだけど、それはまたあとで。

演じようとしている役に対するプランや色気を手放したときに、演者本人の持っている資質みたいなのがあらわになる。それが面白いのだ、『エリザベート』って。

わたしがそう見るからそう見える。そうした側面はあるにしても、二度目に見た宙組の『エリザベート』は、そんなことを感じさせた。

前回の観劇では、厳しいことを書いてしまったかなと、少し申し訳なく思ったりもしていたのだけど、まあくん、みりおん、マカゼは、三者の持ち味がぐっと出ているように感じられて、そうなると物語の中にも入っていけ、楽しい観劇になった。

(観劇って、本当に生物なんだなと思う。前回見たのは、初日が開いてすぐの二回公演の日で、舞台裏も舞台の上の人たちも、オケ、音響、照明の人たちとのバランスも調整中だったのかもしれない。私自身のコンディションも影響していると思う。でも、わたしが前回の観劇のみだったら、そのままの印象をもってしまうわけだから、そこはやっぱり、言い訳にはならないとは思う。そういう意味でも『エリザベート』ってこわいですね。ほんの少しでもほころびがあると、すぐに見えてしまうのだから)

トート(朝夏まなと)

とても表現豊かになって迫ってきた。一幕は、ぐっとエモーショナルな感じ。前回見たときは、ちっとも感じなかったのに、人間でいうところの恋に似た執着のようなものが感じられた。

それが、二幕の途中――シシィに拒絶されてからは豹変する。氷のような顔色になり、感情は見えなくなる。正しく死神の仮面をかぶったような白い顔が恐ろしい。演出もそれを狙っていると思う。

そこからのコントラストで、ラスト前、「死は逃げ場ではない」と、シシィを拒絶してからのトートがとてもよかった。新人公演でも感じたのだけど、己の感情に苦しんでいたトートが、そこから抜け出たようにして「愛と死のロンド」を歌う。それがとても人間的に感じられた。

そこでトートは、自分の執着が「恋」だと気づいたのかもしれない。というのはさすがに陳腐だけれど、この後、トートはシシィの前から姿を消してしまうから、つまり、シシィへの執着を絶ったのだ。

そう思ったときに、初めてこの『エリザベート』のストーリーがつながった。

恋のようでもあるシシィへの執着を手放したトートは、もうシシィの死神ではない。だから、最後に、天上へと旅するパートナーとして、白装束で現れるのだ。

シシィ(実咲凜音)

みりおんのシシィも、前回の観劇時よりも、ずいぶんイキイキとしていて、少女時代もていねいに演じているように感じた。

子供っぽくふるまうって、決して雑にふるまうことではない。シシィは冒険心も悪戯ごころももっているけれど、あくまでもレディなのだから、小さなエレガントもほしい。なので、そこは胸をなでおろしました。

でも、まだ何かが足りない。うーん、私が求めているものが、なんだけど…。

抽象的な言い方になるけれど、「恋ごころ」というか…、「愛」が感じられないのかもしれない。

みりおんのシシィは、誰も愛していない。

トートはもちろん、父親のマックスのことも、突然目の前に現れた王子様・フランツのことも、宮廷での生活も、皇后という地位も、オーストラリアも、ルドルフも、女官たちも、自由も? もしかしたら自分も?…

エリザベートという女性の演じ方としては、それは正しいのかもしれない。エリザベートは「死」だけを愛した。そう考えれば、ストーリー的には納得がいく。

けれどここは、愛を物語る「宝塚歌劇」の劇場だ。そこで、「愛」を全身で歌わなくて、何を歌うの? 

シシィは誰にも恋していない。だから、この『エリザベート』には、恋のときめきがない。

トートとシシィの関係も、「共依存」のような関係になってしまってはいないだろうか。お互いが存在するために、相手を拒絶しながら、知らず知らずに支え合ってしまっている、氷のような共存関係。

そう思うに至ったのには理由がある。二幕の戴冠式の後、「私が踊る時」でトートとシシィの間に火花が散らないからだ。

ここで銀橋に出てくるときに、トートに対して闘志をむき出しにしてくる戦うシシィが好きなのだ。相当の気持ちを入れて、反対側から歩いてくるトートをきっと見据え、絶対に負けるもんかという気構えで見栄を切るように一歩一歩歩いてくる。通常のタカラヅカ作品ではあり得ない、男役と娘役が対等に張り合う夢のシーン。娘役シシィの見せどころともいうべき場面で、みりおんのシシィとまあくんのトートは、バトルになっていない。デュエットになってしまっているのだ。

単に私の好みなのかもしれないけれど、みりおんには、もっと戦ってほしい。自由を獲得するために、トートを遠ざけるために、自分のために。

まあ、共依存関係にあるシシィとトート。と、文字に書くと、現代的で新しいような気もしてくるけれど、ロジックだけではミュージカルの舞台は完成しない。

もっと、全身全霊で、このシシィという役に懸けてほしい。そういう熱量の高いシシィを、みりおんで見たいのだ! ないものねだりをしているのだろうか、わたし…。

フランツ(真風涼帆)

マカゼ・ルドルフもとてもよくなった。

前回見たときは、心配してしまうほどの棒読みな歌だった。音は外れていなかったけど、個人的には、多少、音が外れたり裏返ったりしても、感情の乗った歌のほうが数段いいと思うので、余計にがっかりだったのだ。

マカゼさんの、おっとりとした存在感とノーブルな顔立ちはフランツそのものだし、ゾフィというモンスター・マザーを前にしたときの、身の置き所がなさげなマスオさん感もいい。

フランツはいつもシシィに「こうしてほしい」しか言わない。

現代に生きる一人の女性の目で見たら、「扉を開けて。君の愛で僕を包んで、せめて今宵だけは」と、扉の前で延々歌い続けたり、晩年の「夜のボート」に至っても、「一度僕の目で見てくれたなら」って、それじゃあ一生涯、一隻の舟には乗れないよとしか言えない(笑)。

そんな要求ばかりの、どうしたっていいところのないこのキャラで、お客を魅了しなければならないのがフランツという役の難しさ。しかも、そのために与えられているのは、ほぼ「楽曲」だけ。

だからたいていは、歌える役者が配されるわけだけれど、マカゼさんにそれはない。じゃあ、マカゼさんはどうする?

というのをコアなお客は観にくるわけだけれど、見事に乗り切ったと思う。

本来だったらそれを「歌」でうっとりとさせなくてはならないのだけど、マカゼさんの場合は、持ち前の「宝塚力」と「男役力」で、そんな疑問をほぼほぼ持たせず説得してしまった。すごい!

いや、「歌」でもとろけさせることができれば、こわいもんなしですが(笑)。

歌っているときに漂う霧のような不安感が、そのままフランツっぽかったといえなくもないです。

ルドルフ(蒼羽 りく)

Twitterにも書いたけれど、りくちゃんのルドルフに、何かを持って行かれた(笑)。

よかったよ、りくちゃん。正直、こんなにルドルフにハマるとは思っていなかったし、こんなに物語に入り込める役者だって知らなかった。そういう面を見る初めての機会だったんだね。

冒頭で、『エリザベート』という作品には役者の持っているものが出ると書いたけれど、ルドルフという役はそれがもっとも顕著かもしれない。

りくちゃんのトートは、誰よりも愛を求めるトートだった。そして、それゆえに闇に惹かれ、病んでいってしまう。つまり、とてもシシィだった。それも、みりおんのシシィに足りないと感じる部分を持った。

みりおんのシシィは理知的で、病んではいないので、余計に、愛を求めるルドルフの姿がドラマチックに見えたというのはあると思う。シシィに拒絶される場面がもうつらくて。シシィの冷酷さが恨めしかったし、あれでは長く生きられまいと納得もした。なんというか、自分の中にある、母性と父性を呼び覚まされるようなルドルフでした。あまりに闇に惹かれすぎているので心配。召された後は、楽しく黒天使で二代目トートの修行をしていそう(笑)。

あまりにももろく、外からの影響を受けやすいので、革命に対する強い思いは感じらず、革命家たちにパシリにされている感はあったけれど、そんなルドルフもアリだなあと。

「ママと僕は似て」いなかったので、水夏希さんがトートを演じた雪組『エリザベート』に今のりくちゃんルドルフを入れてみたいような気持ちになりました。顔立ちも似ているし、白羽さんのシシィとぴったりだったんじゃないかなあと、しばし妄想してしまったほど。

りくちゃんはダンサーだから、芝居へのアプローチが、身体感覚に根ざしているようなところがあるのかもしれない。お芝居と歌は、うまいとはいえないのに(ごめん)、ルドルフのような内面を表現する役だと、がぜん輝き出す。感情のため方がうまいんだと思う。深いところで、人を引きずり込む力がある。

「闇が広がる」のトートとのダンスも、もはや振付ということをまったく感じさせないくらい、芝居と歌と動きが一体化していて、それが素晴らしいと思った。今でも目に浮かぶもの。残りの命を示すように、ひらひらと動く手や、空っぽになってしまったしどけない姿を。そういう意味ではやっぱり「踊るルドルフ」なのかもしれない。ルドルフの場面がすべてダンスだった気もしてくる。

(フィナーレの群舞も本当に素敵で、せつなげな表情で釣っておいて、ふっと笑顔になる瞬間を二度ほど目撃しましたが、あれはいけません(笑)。ぐらっとこない人はいないんじゃ。危ない、引きずり込まれるととっさに身構えました(笑))

ルキーニ(愛月ひかる)

愛ちゃんルキーニも健闘していた。名前から連想するわけじゃないけれど、今回観て、「愛」を感じさせるルキーニだと思った。

世界や、人々に対するなざしがあたたかい。この、もつれまくった人間関係の中でうごめいている人々を愛しているような、世界が見えているルキーニ。ひと言でまとめると「チャラい」ってことになるんだけど(笑)。

一つの役として見れば、それはとっても魅力的だ。ギラギラ感はぐっと増していて、男役としてとってもいい感じに出来上がりつつある。

でも、ルキーニはテロリストなのだ。世界を愛している人間に、世界を破壊するような行動はとれないと思う。

もっと世界を憎まなければ。拒絶しなければ。魔物を棲まわせなければ。ベタだけれど、そこがきちんとしていないと、狂言回しでもあるルキーニは成立しないし、ルキーニが成立しないと、この『エリザベート』という物語が迷子になってしまう。

冒頭に、『エリザベート』という作品では、演者はその役に身を投じるしかない。しかし、ルキーニだけはその限りではないと書いたのは、そういうことだ。

本当にチャーミングなルキーニなんだけど、愛されキャラになってはいけない役だと思う。

危うい均衡を保った座組

感情の動きがはっきりとし、人間的になったまあくんのトートはとても魅力的だ。シシィの愛が見えないから、それが余計に際立つ。

でも、そのいびつさを、マカゼ・フランツ皇帝がファジーに包み込み、りくちゃんルドルフが世界の真ん中で愛を叫び、愛を求めてさすらい続けたシシィは、最後になってやっと、自分の中の愛の不在に気づく。

求めてばかりいたのは、フランツだけではなかった。シシィだって、愛を求めていただけだったのだ。自分から愛そうとはせず。シシィは「死」を愛しただけだった。

シシィへの恋に気づいたトートは、愛するがゆえに、自分自身を放棄し、シシィの元を立ち去った。手放したときに、今度はシシィが胸に飛び込んできた。でも、シシィが求めるものは「死」。トートが求める、自分に向けられる「愛」ではない。

登場する誰もが、満たされない愛を求めてさすらっている。この座組の『エリザベート』は、そんな氷のような物語に見えた。

面白いのは、誰一人として、求める愛を得られないということだ。でも、全体としてみると、誰かが誰かを補うようで、危うい均衡状態になっている。不思議な座組。ある種の欠落感が、響いてきたのかもしれない。とても面白い『エリザベート』だった。



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