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これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛 * 『ドン・ジュアン』

◎『ドン・ジュアン』 2016年6月18日(土)初日 KAAT

 タイトルは、懐かしの歌謡曲「愛の水中花」から。舞台を見たあとで、このミュージカルに描かれていた愛のことを考えていたら、松坂慶子さんが歌ったこの曲がアタマに浮かんだのです。古い歌謡曲だから、知らない人が多いと思うけど(笑)。

 ちょうど行けるタイミングだったので、それならばと初日を選んだのですが、行ってよかった! 作品自体がよくまとまっていて、楽曲はいいし、ダンス場面もいいし、構成も場面もよく、流れも気持ちよくてと、想像以上の完成度。

 海外ミュージカルの日本初上演ということで、楽譜の数も膨大だし、難曲ぞろいだし、大人の世界を表現しなくちゃいけないから、大変だったろうと思うのですが、これが初日だとはにわかには信じられないくらい、みんな、役にも歌にも感情が乗っていて、気持よくお話に乗らせてもらいました。

 Twitterにも書き散らしたけど、一幕ラストあたりからの展開に、感動して涙が(笑)。さらに、二幕でもそれが続く。ラストあたりは、もう涙が止まってくれなかった。この感情の揺さぶられ方がたまらないし、メロディやサウンド、歌詞までリンクして後押ししてくるから、もう気持ちよくこの身を委ねました。

 極端な話、歌がちょっとぐらいグラつこうが大したことではないんです(笑)。そんなちっちゃいことは、感情をきちんと出すということができていれば、芝居がみんな吸収してくれる。この『ドン・ジュアン』は、そういう感情ミュージカルだと思う。

 歌が歌えて、芝居もできるキャストがいるのに、作品に芯がなくて散漫になってしまった例は少なくないけれど、この『ドン・ジュアン』が、初日から、奇跡的な作品のうねりを出していたのには、やはり、主演のだいもん(望海風斗)によるところが大きいと思う。

 お話を回していくドン・ジュアンがどっしりと存在しているから、出演した雪組生たちはもちろん、演出の生田先生も、そこは作っていきやすかったんじゃないかな。

 だいもんには、いつも感心するばかり。初日から歌や芝居が完成しているのはもちろんのことで、テンションを高いところで安定させることができるのです。初日だって、最初の登場シーンからドン・ジュアンが「入ってる」のが分かった。さらに、そのテンションを高いところで持続できて、押し付けがましさがない。

 もともと備えている芝居の排気量みたいなものが違うんだろう。それで表現力にも長けているのだ、きっと。うらやましい限りです。贔屓の役者を持つ身としては…。

 ただ、私見ですが、タカラヅカのファンの方って、主役に、ルックス、血筋、お金、理想といったアビリティと、倫理的な正しさを求め過ぎるクセがあるように感じるので、そういう意味で、設定に「乗れない」人はいらっしゃるかもしれません。

 何しろドン・ジュアンさんたら、女性とみたら理性がまったく効かなくなる放蕩者。不倫どころか、自分の妻を人前で辱めることなんて何とも思わない。現代社会では、絶対に許されない振る舞いをバンバンしちゃう(笑)。それを魅力的に見せなきゃいけないのだから、めちゃくちゃハードルが高い。

 壮一帆さんが、ドン・ジュアンと同じく愚かしくも美しい、『心中・恋の大和路』の忠兵衛を演じて、ぼうっとなっていた日々を思い出します。

 忠兵衛を語ろうとするとき、「どうしようもない男だけど」っていう断りがたいてい付いてきて、そのたびに、「いや、待って。まず、二枚目ってことでしょ? どうしようもない男を演じるのを楽しむんでしょ?」と、心の中で突っ込み過ぎて疲れていたのでしたが(笑)、ドン・ジュアンさんにも、「ゲスの極みだけど」的な断りが付いてきそう。

 でも、忠兵衛もだけど、そこが面白いところだと思うんです。

 ドン・ジュアンって、歌舞伎でいう和事と色悪がミックスされたような役どころでしょ。善悪を判断することを放棄して、「悪い男」を演じる役者にハマるのって、なかなかに楽しい大人の遊び。

 別に、芝居を見るときに登場人物の誰かに感情移入する必要もないし、贔屓の役者が出ていれば、その役の視点で見てしまいがちだけど、エルヴィラや寝取られたかわいそうな男の視点で、正義を振りかざしつつ見るのじゃ、ちょっと面白みに欠ける。

 愛を見つけたら、もう何も見えない、疾走しないではいられない、ドン・ジュアンやマリアの視点になったときに初めて、この作品の面白さや、堕ちていくこと、沼地の心地よさが分かるのじゃないかしら。

 だいもんのドン・ジュアンは、恐ろしいほど素敵だった。愚かなところも、自分を制御できなくなるところも、ピュアなところも、みんないい。「ゲスの極み」の恐ろしい魅力を見事に表現していたと思う。

 マリアだってそう。彫刻の才能があって、物怖じせず、いつも前を向いていた彼女が、ドン・ジュアンに会って、やっぱり走り出して止まらなくなってしまう。

 ドン・ジュアンとマリアは、わたしには似ているように見えた。そんな二人の、誰も止められないほとばしり、疾走感が、この作品の大きな魅力だと思う。『マノン』や『ロミオとジュリエット』や『心中・恋の大和路』と同じ、エモーショナルなミュージカル。

 素晴らしいな、だいもんのドン・ジュアン。

 カーテンコールのあいさつで、だいもんが、タカラヅカでドン・ジュアンをどこまでやるんだろうと思っている方もいらっしゃるのでは? というようなことを話していたけど、そういう意味でだいもんのドン・ジュアンは、すみれコードというか、タカラヅカファンの芝居の楽しみ方を少し変えるかもしれない。

 ドン・ジュアン以外の登場人物も面白かった。「いい人」だけの人も「悪い人」だけの人もいない。みんな一人の中に光と闇があるし、問題は解決しないままだ。

 疾走するドン・ジュアンと共に、もがきながら少しずつ変わっていく。それがとてもリアルだった。愛の呪いをかけたはずの亡霊でさえ、最後は愛を知ってしまうのだもの。

 ただし、例外が一人。それが、彩風咲奈ちゃんのドン・カルロだと思う。

 『ドン・ジュアン』を見ながら、『ロミオとジュリエット』や瀬奈じゅんさんの『マノン』を思い出していたのだけど、咲ちゃんのドン・カルロは、その中で若き日の壮さんが演じた牧師見習いのミゲルと同じ役どころだった。好きだったなあ、壮さんのミゲル。瀬奈さんをひたすらに思う壮さんのピュアさが炸裂して、よい役だった。

 ドン・カルロも、天使なんだと思う(真剣)。一幕も二幕も、ドン・カルロが目覚めるところから始まるのは、この物語が天使のドン・カルロが見た世界だからだと思うの(真剣)。

 だから咲ちゃんは(身勝手論理)、もっともっと天使になっていいんだと思います(笑)。『ロミオとジュリエット』の、疾走するロミオのように(あの役、本当にぴったりだった)。

 思いつきで付けたタイトルだけど、なかなかどうして、『ドン・ジュアン』には愛がいっぱいですね。「これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛」。一筋縄ではいかない、それぞれの愛。

 本来の「ドン・ジュアン」物語は、最後に宗教的な「赦し」や教えに帰結するのかもしれないけれど、タカラヅカの『ドン・ジュアン』は、まさに「愛」でまとめ上げていて、そこも素晴らしかった。

 いろいろな解釈ができるけれど、タカラヅカらしく「愛」を散りばめては、また「愛」を集めるというあのラストシーン!

 答なんかないし、誰もがそうやって、愛を見つけ、集めては、また放り投げる、その繰り返し。答えは出ない。「一人」になって死ぬまでは。そんな無情と寂寥に添えられた深紅の「愛」。

 みんな、ドン・ジュアンによって、愛を知ったのだ。憎んだりなんかできるはずはない。

 素晴らしい愛の物語だった。

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