見出し画像

感想・舞台『刀剣乱舞』七周年感謝祭ー夢語刀宴會ー(自己privatterより転載)

元々、自分のprivatterのために書いたものを、noteの使い方の練習も兼ねてこちらに書いてみます。


■1 ステ本丸の審神者さん

「どこでもなく、いつでもない夢の中。」


そうは言われるけれど、冒頭で「この問題、授業(義伝)でやったところだ!」となりました。

《どうして三日月は、ここが夢の中だと知ることができたんだろう?》

そこから出発して考えた結果、私は、この舞台はこういうことだと解釈しました。

~~

時期は綺伝よりも先の未来。
近侍のへし切長谷部がまとめ上げる本丸は恙なく日々を送る。
三日月宗近は失われたまま、山姥切国広は修行から戻らないまま、刀剣男士たちは日常を営み、出陣をこなし、鍛練を積んでますます強くなる。

しかし審神者はしばしば思う。

この刀たちがここまで強くならなければならないのは何故なのかと。
いうまでもなく、審神者自身がそのように彼らを導いてきた結果であった。
そして、三日月宗近と山姥切国広の喪失が彼らを更に駆り立て、今の強さになっている。

三日月宗近も山姥切国広も失われず、彼らがこれほど過酷に強さを求めなくても良い、そんな世界であればよかったのに。

悲しむ暇もなく戦い続けた彼らが、ただ無心に時を楽しむことができたらよかったのに。

~~

私の解釈はこんな(↑)感じです。


● 極になった男士たちも元の姿になっている 
 ← 審神者が、彼らが強くならずとも良い平穏を願ったから

● 刀剣男士たちは、三日月の喪失を覚えていない
 ← 審神者が、そうであったなら良いのにと願ったから


例外として、三日月宗近と、山姥切国広だけは、悲伝の出来事を記憶している様子でした。

その理由は難しいところですが、《審神者が夢見た時点の本丸にこの二振りは存在しなくなっているため、彼らを夢に見るためには、失われる前の記憶に基づき「ここに彼らも居てくれたらよかったのに」と思うしかないから》ではないかなと思いました。


【 刀剣男士が心を持つのは、人が物に寄せた心があるから(虚伝)。 】


この夢の中にいる刀剣男士たちも例外なく、夢見る審神者が寄せた心の影響を受けているのではないか。

三日月宗近と山姥切国広には、どうしても避けがたく「居てくれたらよかったのに」という感情が付いて回るので、この二振りだけは、三日月宗近の喪失の記憶を夢の中にも持ち込んでしまっている。
そういうことかなと。



山姥切国広についてはもう少し複雑な気がします。

「山姥切国広が三日月宗近の喪失を経験しなければよかったのに。三日月を失わなければ、山姥切国広はこんなこと(修行から戻らないこと)にはならなかったのに」

だから審神者は、山姥切国広が三日月の喪失に直面しないことも夢想していたのではないかな。

そのために山姥切国広は最初のころ、頭がぼうっとして三日月宗近の喪失をはっきりとは思い出せなかった。
それでも、覆い隠せない悲しみの深さが、山姥切国広に三日月の喪失を思い出させてしまっていたけれど。

もしそうだとすると、三日月宗近はあの場で唯一、クリアな認識で「三日月は本当はここにはいない。三日月も一緒にいて本丸の仲間と楽しく過ごせていたらどんなにいいか」という主の夢を認識し得た立場だったのではないかと思いました。




私の印象として、ステ本丸の審神者は過酷な局面を重ね、何度も精魂尽き果てて寝込むことをしているイメージがあります。
そうした先入観も込みではありますが、この感謝祭、夢の宴自体が、顔を見せない審神者の傷と情を深く感じさせられてなりません。


だから、何を見ても沁み入るお祭りでした。やばかった。



「近侍の山姥切国広」というワードも、山姥切と三日月しか言っていなかったんじゃないかな。どうだったかな。

もちろん、夢の中はいろいろな認識が混在するので、他の刀剣男士たちも「近侍の山姥切国広」と聞けば「そうか」という感じで納得はしている。
でも、籠手切江のように、素で動いた場合には、山姥切ではなく長谷部に許可を求めていた気がする。

だから、審神者が眠っている現実には、三日月も山姥切国広も本丸にはいないのだろうなと。

■2 骨喰藤四郎

「夢」についてこんな解釈を持って見ていたら、骨喰藤四郎の一言にやられました。

「主が、目を覚ますんだな」

こう言った骨喰藤四郎(三津谷さん)、目に涙が盛り上がっていて。


主が目を覚ますということは、三日月宗近と山姥切国広は消えて、また現実の彼らのいない日々が戻ってくるということになる。

……骨喰藤四郎は、だから、泣いているんでしょうか。



无伝で見せた、深い洞察と感情の記憶を持つ骨喰藤四郎だからこそ、そういうこともありうるかもしれないと思いました。
私の勘違いかもしれませんが。


■3 歌って踊る刀剣男士


● 刀剣男士たちは、三日月の喪失を覚えていない
 ← 審神者が、そうであったなら良いのにと願ったから

……と、先ほど書きましたが、歌になると皆それぞれの出来事や感情を反映した表現になっていました。

場面が「審神者の願いを反映した夢」から、「審神者を目覚めさせるための戦い」になったので、
刀剣男士たちは、審神者が願った「強さに追われることなく楽しく過ごす夢」の姿を振り捨てて、審神者のための本来の在り方に戻ったのだろうと思いました。


私は個人的に、刀剣男士がアイドルのように振舞うさまを消化する酵素を持ち合わせていません。
だから自分がこれを受け入れられるかどうか心配しましたが、とても良かったです。


「歌ったり踊ったりするのは俺たちのすることじゃない」とか、
豪華すぎる「軍議」など、
《楽しませるために大人が真面目に施す配慮とは、こういうものです!》
(江雪左文字風の口調)
という気迫を感じました。素晴らしかった。


■4 その他 歌のこと

a 悲伝から「刻撚り糸」

この一曲だけで、悲伝の衝撃を思い出しました。衝撃が後を引きました。

イントロのエレキギターの音に合わせて舞う三日月の扇が∞の形を描くところとか。

照明が控えられた暗い画面に、エレキギターの音と扇の舞い方が合わさって、三日月を取り巻く疾風怒濤を瞬間感じました。

照明が付くと、三日月宗近の表情。空洞というか、絶望というか。
死者のように沈黙を続けるしかないというか。
さっきまで山姥切国広と入れ替わって楽しそうに名前鬼とかしていたのに。

仲間の刀たちの勇ましい様子が、本当は救いたかったあの戦いを思い出させました。

扇を畳むと、三日月は、色の無い表情のまま真っ直ぐ前方を扇で指し示すんですね。
その様子が、仲間たちに、自分は行けない未来に進めと言っているように見える。

そのまま三日月が背中を向けて、「天に散る」で両手を広げるのはさらに救いがない。
三日月が立位で両手を広げるのは、いつも、舞台上から立ち去るときだったと思います。
だからこれは、仲間たちの戦いがあろうと三日月は消え去るという表現に見えました。しかも歌詞が「天に散る」ですから。


ただ、その後、三日月がこちらを振り返ってポーズを取って薄く微笑んだように見えました。ポーズは顕現のときと同じ体勢かもしれない。
その姿勢の三日月の元に仲間たちが駆けあがってくる。その仲間たちが見えるからなのかどうか、三日月は微かに微笑んでいる。

三日月は仲間たちに託しているし、仲間たちを信じているんだなとそこを見て感じました。
何度円環を回っても、それが狂いそうな果てしない時間であっても、顕現して仲間たちを見るときには少し微笑みがある。

三日月宗近は諦めていないということが、一言の言葉もない中で伝わる凄い表現でした。


ちなみに、このお腹にずっしりくる感情を受けた、その直後に「日日好日」が、

「ここから始めようか」
「相変わらずの暮らしを 『いつも通り』それがいい」

とにこやかに賑やかに歌い上げるので、感情が激しくシェイクされて、どうしたら良いか分からなくなりますね。


b 慈伝から「心茲に在り」

山姥切国広と山姥切長義の視線の差が刺さってくる凄い組み合わせでした。

冒頭、山姥切国広の視線は斜め上。視線の先には、いなくなった三日月宗近がいるのかなと。
それに対して、山姥切長義の姿勢と表情と視線が凄かった。
長義の視線の向きは斜め下から始まって、彼が山姥切国広に意識を向けているのは間違いないのだろうけど、彼の意識はあくまで現実にあるのだろうなと思いました。

「散じた一振り 運命のいたずら」

これを歌うのは山姥切長義でしたが、山姥切長義はその「一振り」(三日月宗近)を見たことは無いわけで。
一度も会ったことのない一振りでありながら、長義は、本丸に配属後ずっと、三日月宗近の名残が色濃く残ることを感じてきたはずです。
悲伝を越えたばかりの本丸に新しく加わることになった長義が、会ったことのない「散じた一振り」を思い、己の知らない「これまで」を抱くと歌うのがとても凄いと思いました。

私のイメージする刀ステの長義は、絶望するくらいなら戦うし、諦めることを己に許さないタイプの高邁な性格だと思っているので、彼はきっと、自分の知らない過去も含めた本丸の「これまで」と「散じた一振り」の物語を背負って戦う決意なんだろうなと。

山姥切国広の表情や表現は、哀しくもあり、儚い感じもするのですが、それに比べて、山姥切長義の表情が本当に強くて。もう、くり返し言いたいくらい、本当に強くて。

落とされた照明の中で二振りが舞うシーンでは、床に膝をつくのが山姥切国広で、山姥切長義が国広の手を引っ張り上げて、山姥切国広が立ち上がるんですね。
慈伝で床に叩き伏せられてからここまでの、多くの時間を想像しました。

山姥切国広は、彼だけの物語と経験のある十分に強い刀だと思いますが、その山姥切国広が何かの形で危うくなったとしても、山姥切長義がいる限り大丈夫だと思いました。


c 維伝から「あさきゆめみし」

不穏でありながら細やかなニュアンスがあって、元から好きな曲でしたが、肥前忠広!あのニュアンスを作っていたのはあなたの声でしたか!!
肥前くん役の櫻井さんの声、特徴があっていいですね。
歌で新発見する魅力だなと思いました。


d 綺伝から「幾星霜纏ふ刀」

歌仙の表現が美しく深みがあってよかった。
あと、第三部隊の全員が、この曲では刀を納めて桔梗の花を手に歌っているのが凄かったです。
綺伝の第三部隊は、決してベタベタしないし力任せにぶつからないし、節度を持って上手く連携していたのが印象的でした。
歌仙兼定も、自分の感情を仲間の前で吐露することはあまりないイメージです。
それでも、仲間たちは、歌仙の元主とその妻の物語に心を寄せて、歌仙と一緒に花を手に歌うんだなぁと。



■5 新たに明かされたこと

蜂須賀さんが来ましたね!
来たというか、ずっといたんですね!!

蜂須賀虎徹が来たから、これは蜂須賀虎徹を含む新作の発表かと思いましたが、全然違って驚きで吹き飛びました。

慶応甲府とは!
新選組刀たちが刀ステにも登場するとは!
(もう刀ミュでしっかり描かれているので、こちらでは出ないかなと……)

この世界がどこまで広がるのか不安にもなりますが、とにかく楽しみです。

末満さんも、キャストの皆さんも、どうかお元気でみなさんご無事で……!







「感謝祭、どうしようかな…本編じゃないし、刀剣男士かっこいい!キャー!って盛り上がるイベントだったら私に合わないと思うんだけどな…まあ、おめでたいことだし。合わなくてもご祝儀と思えばいいし。それに、やっぱりこれだけ集まるのを見られたら楽しそうだし」

そんなノリで配信を購入した自分に、「見るべき!是非見るべき!!」と言いたい。

こんなにど真ん中で刺さるとは思いませんでした。参りました。



刀ステは歌で紡ぐ物語じゃないけど、刀ステの歌は、今を生きて戦うことの象徴でもありますね。

いつか皆と一緒に、高らかに勝鬨の歌を歌う三日月宗近が見たいです。



(追記)

三日月宗近が本丸ランドのマップのようなものを持って楽しそうにうろうろしていたのも、小さく「うっ」となりました。
義伝の遠足で、楽しそうに旗を持って引率している様子を思い出して。


いつか未来で、屈託なく皆で楽しくレジャーできるといいね。



あと、三英傑の歌ってあんな「みんなサンキュー!最後の一曲行くぜ!!」のテンションで大勢で合唱するもんだっけ(笑)。とてもおかしかったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?