思考の棚ざらえ 2015 #04

 この時期、知り人に合うたび、暖かくなりましたね。と挨拶をする人と、やはりこの時期、知り人に合うたび、まだまだ寒いですねぇ。と挨拶をする人とが、すれ違うのにも骨が折れるような細い道で正面から出っ食わしたときに、それぞれの、季節に対する肌感覚の違いから起こる論争、さらにはそこから発展する形で起こるであろう腕力に頼った争い、流血沙汰なんかについて考えている暇などいまの僕には全然ないのです。というかこんな愚昧なことを考えている暇などどんな人物にだって、いや、どんな人類にだって、いやいや、どんな畜生にですら全然ないのであります。つまりこうして僕は今日もまた、二度と無い人生の大切な一瞬間を愚考で全然無為に浪費してしまっているのです。とても悲しく情けないです。

閑話休題

 気がつけば都会に有る映画館のほとんどがシネコンになった。座席は全席指定&ネット予約が当たり前になった。さらには上映の各回毎に観客の入れ替えが当たり前になり、これによって映画が始まってから入場してくる者や映画の中途で退場する者もいなくなった。斯くの如く、以前と比べるとはるかに落ち着いて鑑賞できる空間になったはずなのだが、どういうわけだか近ごろ、めっきり映画館に足を運ばなくなってしまった。なぜかしらなぜかしら、と小松政夫のフレーズを真似しながら考えてみたところ、つまるところ、マナーがルールになってしまったが為の息苦しさ、なのかも知れないと思った。客席を自分で選ぶこと、上映時刻に間に合うように映画館に来ること、上映途中に無遠慮に立ち上がり出ていったりしないこと(上映中に開けられたドアから差し込んでくる光ほど興ざめなことはなかったっけネ)、などはマナーとして観客それぞれが肝に銘じて行動するものであった。シネコン以後になるとそれらマナーを強制的に守らされるようになった。強制されるマナーとはすなわちルールのことだ。マナーには公共への意識が必要とされるから自然、あらゆる行動について自分以外の観客に対して迷惑にならないように気をつける。しかしルールは恥に立脚する部分がない。ルールを守らぬ場合、守らぬ個人が映画館からのペナルティを受けるばかりだ。そこに公共への意識はない。映画館からのペナルティを受けたくないという個人的な考えがあるばかりだ。だからマナーがルールになった途端、明文化されたルール以外の、マナーに属する事柄を平気で破る輩が急増した。上映が始まってしまえばたとい暗闇の中でスマホの画面を公庫と輝かせていても構わぬ、だって別になんのペナルティも受けないんでしょ。てなもんである。シネコンになって映画館のハードウェアの部分は格段に進歩したがその分、そこに集う人々の程度は少しく下落したように感ずる。

閑話休題

 マナーを意識しないというのは詰まるところ、対象に対する愛情が皆無なんだろうと思う。対象とするその何かが世の中からなくなったとしても別段困らないんだろうと思う。だから傍若無人に振る舞えるのだろうと思う。

閑話休題

 そういえばインターネッツ前夜に流行したパソコン通信(自分がいたのはニフティサーブ)も、自分が入った当時はマナー意識の高い人々が集う居心地の良い空間だったけれど、大勢の人々が参加するようになった途端に通り魔的な書き込みが増えて、良い雰囲気がすっかり破壊されちたものだったっけ。悪貨は良貨を駆逐する、というのはマジ真理でしょうなあ。

閑話休題

 時代環境と人間生活、というのは実はあんまり合致していないのじゃないか、と思う。たといば吾輩が餓鬼の時分にはまだターミナル駅などでは、行商のおばさんが巨大な荷物を背負ってコンコースやホームを当たり前のように歩いていたものだった。いまから三十年以上も昔のことだから当然、エスカレーターやエレベーターが設置されている駅の方が少ない。加えてバリアフリーに対する意識も低かったから方々に不埒な段差があった。電車に於いても冷暖房の無い車両が当たり前に走っていた。そういう不便な中を行商のおばさんたちは逞しく商売に歩いていた。あれから幾星霜、駅や電車の設備は乗客に対して飛躍的に優しくなった。都心や郊外電車ではエスカレーターやエレベーターが設置されていない駅を探すほうが難しいくらいだ。ところが、そうして移動が楽な時代になったら、こんどは行商のおばさんがすっかりいなくなってしまった。せっかく行商のおばさんにとって安楽な時代が来たというのに。まったく時代と人間というのはうまくいかない。

閑話休題

 自分は中学二年生の時に「あ。パソコン欲しい。すっげー欲しい。ゲームを初めとする、なんか面白そうなことをしてぐんぐんにあすびたい」と思ってMSXを買ったところからPC歴が始まっている。その為、自分はPCを操作するとき、たとい、それがどんなにまじめな書類を作成する場合であっても、自然と心にあすびの色が指してきてしまう。故に、PCから派生したもの(スマホだとかタブレットだとかインターネッツだとか)を、ビズネス的なことに使うのに少しく抵抗があるんでやんスね。あすびの道具じゃんかこれ。って、ふっと思っちゃうン。だから電車の中でスーツ姿の人がしかつめらしいような面つきでPCやタブレットを操作しているのを見るとつい「あの人、あんなちゃんとしたビズネスマンなのにあすびの機械いじってるよ」って思ってしまう。そういうわけだから自分も電車の中でスマホをいじったりするのがなんか気恥ずかしい。なんつーか、公衆の面前でだだらにあすんでいるみたいな変な気になっちゃうン。

閑話休題

 SNSを一切やらない人が世の中から抹殺されてしまう話、というのを何となく考えていたのだが結局、筒井康隆大人が著した『最後の喫煙者』と同じような筋立てになってしまって、やっぱりほんものの作家って凄いよなあ、いま読んでも示唆に富んでいる話を何十年も前に書いちゃうんだからなあ、と大に感心しているところです。

閑話休題

 あるいはSNSをやらない人々が世の中のインターネッツから隠れてひっそりと集まるコロニー、みたいなものが出来ないか知らん、とかも考えていたのだが結局、『華氏451』と同じになってしまっているからだみだこりゃ。発想が貧困だなあ僕ア。と思って悲しくなりました。ぐっすん。

閑話休題

 この数年でプロ野球の一軍監督も、二軍監督やコーチの経験を経てから就任する人が増えてきてまことに喜ばしいことと思う。向後は中畑清や工藤公康や栗山英樹のような落下傘的に就任するケースのほうがレアになって行くんだろと思う。真中、緒方、大久保各監督あたりは十年前ならきっと一軍監督にはなっていないような人たちだ。いまBuの森脇監督が日本一になるなど成功したら愈々この流れは加速するだろう。森脇の現役時代なんて、異様なほどのハンサムだけしか取り柄のない控えの内野手だったからなあ。広島と南海にいたんだよな確か。

閑話休題

 お願いだから、二年間だけでいいから、我がベイスターズの監督をオバQ田代富雄に、ちゃんとした形でやらしてやってくれないかなあ。それだけで少年時代の自分の魂が救われたような気持ちになる大洋時代からのオールドファンって、結構多いと思うんだがなあ。まあ親会社が変わっても、金城みたいなチームの顔となっている人気の高いヴェテランを簡単に切り捨てる体質は変わってないみたいだから、無理かア。石井琢朗も谷繁もこのまま先様のチームの人間になっちゃうんだろうからなあ。ほんと、たとい親会社が変わったとて、オバQのことだけはちゃんと落とし前をつけてくれよう。

閑話休題

 それでは今日のところはこんなところで失礼します。いつもありがとうございます。ありがとうございますついでに、いつものように僕のホームページ(http://garbage-coll2.sakura.ne.jp)もまたよろしくお願いします。今週末か来週明けには新作を公開しますのでその節はまた告知させていただきますのでよろしくお願いいたします。ではそんなことで。メリークリスマス。


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