思考の棚ざらえ・8

 相変わらずいろんなことを考えています。いつも云うように考えているだけですから、結果、何もしないままに時間ばかりが無為に過ぎていくという仕儀になります。古来から、下手の考え休むに似たり、と云いますが、なんつーか、昔の人は良いことを云いますねマジで。

閑話休題。

 でも車椅子テニスのほうは男女ともに日本人選手が全米オープンを見事制覇しているからそっちもちゃんと称賛して欲しいものと思う。新聞の号外を出して欲しいものと思う。パブリックビューイングで盛り上がって欲しいものと思う。

閑話休題。

 みたいなことを云うとなんか、世間の話題に対して斜に構えたスノッブを気取る馬鹿、みたいになってしまうからあんまり云わないほうが良いよね。正論というのは、それを云われた側が「うはあ。こいつ面倒くせえ」と思うような厄介なものだからね。

閑話休題。

 しかし世の中にはかくもパブリックビューイングが好きな人々がいるものかと、こういう世界のスポーツ大会で日本人が活躍するたんびに思う。同時にまた、こうして世界の大会で日本人が当たり前のように活躍する時代になってしまうと、そらまあ国内にしか通用しない大相撲や日本プロ野球の人気が凋落するのもむべなるかな、という気がする。

閑話休題。

 そういやあれあいまから十数年前かなあ、立川志の輔師の落語を聴いていたら、ワールドカップサッカーが爆発的な人気を獲得している話題に触れて「明治維新から始まった開国がようやく真に成ったんだろう」と云っていたっけなあ。これを聴いた当座は、言葉の意味は解ったものの感覚的な部分までは理解できなかったのだけれど、いまになってみると成る程なあ、と芯から納得する。だってボルグとかマッケンローとかが活躍していたテニスの大会だものね。

閑話休題。

 しかし今回のテニスの盛り上がりによって大会を独占中継していたWOWOWの加入者がぐんと増えたそうだが、WOWOWってそんなにテニスばっかりやってないよね。放送する番組が月に百本あるとしたらそのうち三本あるかないかだよねテニスの放送は。だから、今回のような並外れた話題が無くてもテニスのゲームが観たい、というぐらいなマニヤな人でないと満足しないんじゃないかしらん。

閑話休題。

 WOWOWが開局した頃はいずれ世の中では番組単位で購買するPPVが一般化するんだろう、と思っていたものだけれど、いま、世の中を見てみると、PPVこそ出てきたけれども、それを観るにはWOWOWやスカパーに加入せんければならなかったりして、あの頃想像した世の中にはなっておらんように見える。そらまあ映画のレンタルはTSUTAYAにしろiTunes Storeにしろ数百円/本で、基本料金とは無縁で借りられるけれども、それあ既にレンタルビデオとして昭和の末には実現していた形態だ。いま、真にPPVで観たいのはもっとニッチなもの、話題の芝居であるとかスポーツの大会みたようなものじゃなかろうか。そういう、地上波のテレビ局ではダイジェストになってしまうようなものを番組単位で購入して心ゆくまで視聴する、みたいなものを想像していたと思うんだけど、いつの間にか「そういうものを観たければWOWOWやスカパーに入らんければならん」という常識/ハードルが出来上がってしまって、なんかいやだ。しかも、そういう当節のペイチャンネルのPPVってとんでもなく強烈なコピーガードがかかってたりするし。デジタル化開始以降の我が国の放送にはそういう隔靴掻痒というか、股座から手ぇ突っ込んで背中を掻くような面倒がつきまとうよね。

閑話休題。

 話はマジで変わる。

閑話休題。

 老いというのはつまるところ体力が無くなるということに帰結するのでありましょうなあ。集中を継続する体力が無くなるから三十分で完了していた事柄に一時間を費やすようになる。それでいて疲労はしっかり一時間分がくる上に、その快復にも以前よりも遥かに時間がかかる。そうしてあらゆることに余計に時間がかかるから、畢竟、一日二十四時間のうち使える時間がどんどん目減りしていく。斯くして一日がどんどん短くなっていく。まいったね。

閑話休題。

 そうして考えていくと厄年というのはつまるところ「あんたもこういう歳になったのだからこれからは生活のパタンを年齢並の内容に変えていきなさいよ」という意味なんだろうと思う。なにしろ老眼になるだけでそれまでと同じように本が読めなくなるんだからね。それにしてもまったく昔の人は良いことを云う。ウィキペディアも無いような昔から「厄年」みたいな真理めいたことを見つけて話して広めていたのだから、マジ昔の人は偉大だと思う。

閑話休題。

 だからもしも僕がタイムマシーンを所有するようなお大尽になったらきっとマシーンを使って昔に戻り、そういうマジ偉大な昔の人々を現代に連れてきたいと思う。たといば明治維新後に蟄居の処分を受けてすっかり暇ンなった慶喜公なんかを連れてきて、平成の日本で思う存分その政治センスを発揮してもらう。あんた暢気に静岡で写真撮ったり自転車乗ったりしてる場合じゃないよ、なんつってさ。

閑話休題。

 歴史についてまったく詳しくはないけど明治維新期の英傑で誰が好きかと聞かれたらそれあ断然、慶喜公と答える。大政なんか奉還しちゃえばいいんだ、というあたりの感覚がまったくもって好き。あと鳥羽伏見ン時に夜半、大坂から逃げ出したあたりのエピソードなんか聴いてて震える。慶喜公の次に好きなのが勝麟でんすよ。なので吾輩は断然、徳川様びいき。

閑話休題。

 とか云うとやっぱりスノッブを気取る馬鹿と思われるから人には薩長土肥の誰かのファンです。と云っておくのが賢明だろう。

閑話休題。

 ここで本当に話が変わる。

閑話休題。

 吾輩は図体が標準より少しばかり大きいから電車やバスの長椅子に座ると図らずも1.1〜1.2人分の幅を取ってしまう。するとどういうことが起きるかというと、そこそこ混み始めた電車、そうさな、すべての長椅子が埋まり立っている人すら散見されるような状況下であっても吾輩の隣だけはポッカリ空いている。みたいなことが起こる。そらまあ0.8〜0.9人分しか空いていないところに座りたくないのは人情だろうと理解はするが、やっぱりちょっと心がささくれ立つ。らょっと心が屈託する。果たしてこんな自分が生きていていいものかと少しく悩む。

閑話休題。

 しかしそうして心がささくれ立っているときに乗車してきた見目にも麗しいような女性、まるで素敵な香りが人間の形に実体化したかと思うような女性が衒いなく、ポッカリ空いた吾輩の隣にスッと座ったりしたらもう大変だ。地獄で仏にあったような心持ち、嗚呼こんな自分でもまだ生きていていいのかもしれない! ぐらいに思って内心で狂喜乱舞する。内心で三社祭を開催する。

閑話休題。

 けれどもそうしているうちにいつしか、内心の三社祭がどぶろっくの唄に替わってしまい、もしかしてこのにょしょう、俺に気があるんじゃないかないかしらん、モーションをかけてきてるんじゃないかしらん、なんて思い始めるから、まったくだめな人間というはどこまで行ってもだめなものです。

閑話休題。

 美人は性格が悪いというのは基本的に嘘だと思う。どちらかといえば美人のほうがストレイトで屈折していない人が多いように思う。ああ、この人、これまでの人生で屈託したこととか無いんだろうなあ。と思わせるような鷹揚な性格の人が多いように思う。なんつーか、人間の根底のところに自信がある、みたいな人が多いように思う。”美人は性格が悪い”という定説が出来上がったのは、美人に声をかける事ができない自分、並んだ時に明らかに釣り合いが取れなくなってしまう自分、を正当化する為に「あの人ぁ美人だけど性格が悪いから」なんて云って誤魔化した卑屈な男がどっかに居たんだろう。まあ昔の人にも相応に馬鹿はいただろうからね。

閑話休題。

 しかし時代が進んだせいで電車に乗っていて困ることが増えた。たといば長椅子に座っているとき、対面の座席にミニ・スカートを履いたうら若き女性なんかが座った日にはもうだめだ。そこで吾輩のようなむくつけきおっさんがうかうかとスマホを取り出し操作してしまったりしたら一巻の終わり。盗撮をしているものと思われ鉄道警察なんかに突き出されるのは必定だ。吾輩は盗撮をしたことなど一度もないのに、盗撮を実施して逮捕される男性の話題が次々報道される刻下の状況では「疑わしきは罰せよ」的な感じになるに決まっているからね。

閑話休題。

 スーパーの地下食品売り場で買い物をぶちかました帰り道、エスカレータターに乗っているときに不図、バスの発車時刻が気になり、考えなしにスマホを取り出し操作、していたときにうわあ、吾輩の目の前に生足も眩しい制服姿のJKが立っていて、こらあかん。この状況は傍目には、ぶちゃむくれのおっさんがJKの下半身を盗撮しようとしているように見えるのじゃないか。仮にそう見えたが最後、通報を受けた警備員があらわれ「いま盗撮していただろう」とあらぬ疑いをかけられる。そうなったらあとは坂道を転げ落ちるようなものだ。見たこともないような薄暗い小部屋に連れていかれて、着ているものをひん剥かれて素っ裸、荒縄で縛られ石を抱かされる。抱石の辛さにぎあぎあと泣きわめいたら「うるさい」と先の割れた竹刀で背中が腫れ上がるまでぶっ叩かれたりするに決まっている……なんていう想像に恐怖してエスカレーターの上で固まってしまう。まあもちろん、そんな恐ろしいことにはならないし、そもそも吾輩は盗撮などしないからそんなことにはなりようがないのだけれど、それにしたって盗撮の逮捕者が続々あらわれる刻下の状況を鑑みるに、強ち、そうならないとは云い切れないところがまこと辛い世の中。

閑話休題。

 話はここで変わるような変わらないような。

閑話休題。

 それにしても世の中は優しくなった。世の中は丁寧になった。たといば吾輩が餓鬼の時分、電車に乗ろうとすれば改札口には駅員が立っていたものだが、その駅員というのが決まって無表情かつ無言であった。そうしてかちかちかちかち、まるで神経病みの人みたいに始終、手にした検札用の鋏を鳴らして辺りを威嚇していた。客に対する愛想など望むべくも無い。駅員に何かを尋ねれば、じろりと睨みつつ五月蝿そうに「あちらです」と指さし教えるのが精々だ。それが昭和が終わり平成に入りバブル景気の最終盤の辺りから駅員が客に対して愛想を振りまくようになった。朝のラッシュ時には「おはようございます」と客に向かって繰り返し一方的に云い続けるようになって、まるで神経病みの人みたようになった。さらに時代が進み都会の駅の改札がすべて自動改札に入れ替わる頃になると、検札の業務から解放された駅員はますます愛想を振りまくようになった。ひとつモノを尋ねればまるで知能の足らない阿呆に説明するように懇切丁寧に教えてくれるようになった。と、思ったら世の中にインターネットが浸透して駅員にモノを尋ねることなんてほとんど無くなってしまったけれどね。でも客としたらいまの丁寧な世の中のほうが断然いいよね。

閑話休題。

 路線バスも近頃では随分丁寧だ。角を曲がるたんびに右に曲がる左に曲がると運転士がアナウンスをする。バス停はもちろん信号による停止/発進の際にもいちいちアナウンスをしてくれる。客としたら、そこまで気を遣ってもらうのだから快適なことこの上ないが、同時に、一方では息苦しいような世の中だよなあ。という気にもなる。こういう親切や丁寧が当たり前になってしまうと、そこから少しでもレヴェルを落としたが最後、ちゃんとやれ! なんつって怒り出すような面倒くさい、馬鹿が固まったみたいな人があらわれるのが世の常だからね。

閑話休題。

 すぐに文句を云ってくる人、の意見が面倒くさく聞こえるのは、その人が「自分の意見は正論」と思っているところなんだろうなあ、と思う。正論と思うとどうしてもその持論に妙な自信がつく。するとその持論は他の意見よりもすぐれていると思い込んでしまう。すると、この持論は正しいのだから世の中の常識となるべきだ、然るに世の中の常識はそうなっていない、こらおかしい、どういうわけだ、世の中間違っとるよ。なんて、植木等の唄みたいなことを思うようになって文句を云う、みたいなことなんじゃねぇかな。と思うのでありこれはまったくの正論だから世の中の常識はこうなるべきである。吾輩の云う通りになるべきである。然るにそのように世の中の常識はなっていない。こらまたどういうわけだ。世の中まちがとるーよー。まことーにー 遺憾にー 存じーます レッツゴーブルージーン!

閑話休題。

 話は変わりますが、物事には”そこを見逃したら殆ど意味がない”というポイントはやはりあって、たといばタモリ倶楽部に於ける「毎度おなじみ流浪の番組、タモリ倶楽部でございます」という冒頭の挨拶などはやはりそうしたポイントなのではないかと思う。物事の、外してはいけない勘所とでも云うかそんな感じの。

閑話休題。

 とまあこんなところで今回はやめにしておきます。ただでさえ年寄りなのにこんなことばかり考えて無為に暮らしていますからどんどん時間が無くなっていきます。ああそうそう、今回の最後に云っておきますが、これからインターネッツにはこういう初老の話がぐんぐんに増えていきますよ。ミレニアムの頃にテキストサイトとか作ってた連中、十五年前の若者たちがみんな初老から中年の年齢に指し掛かってくるからね。まあ、お若い皆さんにとっては蓋しうるせぇことでしょうが、そういう話題を見かけたらきっと無視を決め込むのがいいと思います。どうあったって時代は常に若者のものですから。んじゃあまあそんなこってまたね。

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 吾輩の超絶おもしろいホームページ(ザ・ガーベージ・コレクションV3.0以降)もどうぞよろしく。

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