生きるヒントでピント

 モノは云いようだ。モノは云いようでその印象を如何様にも変える。

 たといば近頃ではその辺のスーパーマーケットでも催されるほど当たり前となったマグロの解体ショー。

 あれも売る側が”マグロの解体ショー”と云うから、買い物客のみなさんもああ"マグロの解体ショー"なんだなと平気に思って見に集まり、そうして職人の手によりマグロが捌かれ解体されるのを当たり前に観覧し、ついに刺し身へと変貌したマグロの肉体を当たり前に買い求め、当たり前に食卓に並べ当たり前に美味しく頂く仕儀となる。

 しかしこれをもしも売る側が云い方を変え、”マグロの惨殺ショー”だとか、”マグロ公開処刑”などとおどろおどろしいような感じに銘打ったりしたら、果たして買い物客のみなさんが受ける印象は如何様に変じようか。たとい披露する内容は同じであっても、あんまり、うれしいたのしいだいすき、な感じにはならんのではないだろうか。

 そうしてまた、モノは考えようだ。モノは考えよって如何様にもその印象を変える。

 マグロの解体ショーがこれだけ世の中に受け容れられているのだから他の生き物を客前で捌いても同じように受けるだろう、とか安直に思って、たといばスーパーの肉屋の店先で牛や豚や鶏をショウアップしつつ屠殺して解体、しこうして後、新鮮なお肉として安価に直売する、なんてことをやったら、見ているほうはやっぱりあんまり、うれしいたのしいだいすき、な感じにはならんと思う。どころか逆に、なんたら極悪非道な見世物をやるのだ。命を面白可笑しく取り扱ってけしからん。などといった悪評にまみれ、その店舗はあっというまに潰れてしまうと思う。


 マグロも畜肉も生き物の命を奪いこれを食するという意味においてはやっていることは同じだ。いったい何が違うのだろうか。

 「それは魚だから良いのだよ。だって魚を生で食すのが古来からある日本の食文化だからね」なんてことを得々として云う人があるかも知らん。それはまあそうだろう。しかしながらその意見もけして真理とは云えないように思う。

 たといば仮にマグロが啼くような生き物だとしたらどうか。まな板の上で何事かを訴えるようにぴぃぴぃと啼きわめかれたとしても、それでもこれは魚だから! 生食が日本古来からの文化だから! なんつって平気に出刃包丁を突き立て、解体をし、切り刻み、その様をショーとして提供/観覧できるものであろうか。そうして刺し身となった切り身を買い求め、食卓にならべ、美味しく頂くことができるものであろうか。

 まったくわからない。モノは云いよう/考えようであるが、そうして突き詰めていけばいくほどわからなくなってくる。生き死にとは何か。食べるとはどういうことか。まったくわからなくなってくる。


 このように突き詰めて考えても。脳漿を振り絞るようにして考えても何らの解決策も見つからない場合にはどうしたら良いのか。

 その答えは案外簡単だ。

 考えるのをやめてしまえばいい。

 思考停止。

 答えなど無いと悟って考えるのを諦めてしまえば良い。

 人間が生きていく上で一番肝心なのは思考停止だ。


 「畜肉は食せば美味いが屠殺、解体されるところは見たくない。だってかわいそうだから」

 「魚は食しても旨いしおまけに解体されるところを目にしても別に平気だ。だって魚は啼かないし感情の表現とかあんまりしないしね」

 とまあこのぐらいの違いのみを判ってあとは思考を停止してしまうのが、矛盾だらけの人間社会を生きていく上で肝心だと思うがまあなんだ、とりあえず、マグロについて書いていたらマグロの刺し身が食いたくなったんだけども朕はいま大変な貧苦に喘いでいるのでツナ缶で我慢です。あと、マグロが好きな女性をカープ女子的にマグロ女子、って呼んだらどうかと思ったんだけどそれだと別の意味ンなりかねないからやっぱしまずいよね。(了)

++++++

 貧乏人の吾輩ですが久しぶりにマグロの刺し身を食ってみたいので投げ銭と致します。代用魚のアカマンボウが食えるぐらいでもいいです。よろしく。

 あと吾輩のホームページ(ザ・ガーベージ・コレクションV3.0以降)もよろしく。昔のインターネットを未だにやってるよ。

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