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あんなのナルシストだけでやっててくれ

ここ数日、なんとなく「ツイッター」が痩せこけてきたように思う。毎日同じ人しかつぶやいてないんじゃないだろうか。その同じ人の代表格である自分のツイートもキレがなく面白くないし(前はもうちょっとマシだった)、タイムライン全体の空気もなんとなくどんよりしている。今もちょっと開けば小泉進次郎氏の悪口ツイートが立て続けに流れている。
…っていうか、「ツイート」とか「タイムライン」って言葉をたかが日記とは言え、自分の文章の中に散りばめるのもなんだか恥ずかしい気がしてきた。

そんなことを考えながらタイムラインを見ていると(結局見てるんだけど)、たまたま横尾忠則さんが同じようなことをつぶやいていた。で、ツイッターがあんまり仕事に役立っていないことに気づいたから、しばらくやめるみたいなことも書いてかな、確かそんな内容。

今週末に常見陽平先生とのトークイベントがあるので、常見先生のご著書を改めて読み始めた。これがもう本当面白くて、面白い漫画を読んでるみたいにスルスルスルスルと文字が頭に入ってきて終始気持ちよかった。
このおかげで、かつての読書習慣が戻り、続いて大和出版さんの担当さんからいただいていた田房永子さんの新刊も読み始めた。これも魂消るほど面白く、本当はコラムを書かないといけないけど、今もサボって読んでいたところだ。

田房永子さんは俺と同い年。俺が「母を亡くした時〜」を描いた頃に、真逆の内容?の「母がしんどい」を描いてドカーン!と有名になった人だったように思う。新刊のエッセイ集の文章も本当に地雷の中を全力で駆け抜けていくような荒々しさと繊細さが同居したような素晴らしい文体で、嫉妬とかなんとかより、ただただ憧れというか、俺も何か書きたくなってしまってひとまずここに日記として吐き出している次第だ。(いや、コラム書けよ、俺よ)

ここで頭に浮かんだのが、「田房さんよ、ツイッターやってないでいてくれ!」というささやかでしょうもない願いだった。あなたがやってなかったら、なんだか俺は勇気がもらえる気がする。両手をアーメンの形に組んで検索してみたら、田房さん、結構ガッツリやっていらっしゃった。俺も俺で、両手をアーメンの形に組んだ状態でどうやって検索したんだよ。

やっぱりやってた方がいいのかなー、ツイッター。ツイッターやってても読書をしてる時みたいな「アウトプット欲」がわかないし、たぶんそれは自分が思っているほどツイッターでインプットできてないからなんだとも思うんだよな…。

さっきも週末土曜にあるイベントの告知をツイートしたけど、どんだけ俺は人気が無いんだよってぐらい拡散されなくて恥ずかしい思いになるし、知り合いにメンション飛ばして返事がないとそれだけで半日モヤモヤするし、どう考えても「ヤなこと>良いこと」なのは全身で感じている。

妻にはよく「あなたと結婚する前、いつも部屋に本がたくさん積んであってそれがカッコいいと思った」と言われる。そんな時期が俺にもあったのか。今はそうじゃないんだな。

やっぱり俺に必要なのは読書だ。ツイッターは自分の新刊の告知を数名の読者さんに伝えるだけのためにつぶやいて、あとはひたすら本を読み、その反動を利用して自分の書きたいことを漫画や文章にしよう。誰にもつまんない遠慮はしない。

ツイッター云々の話は、もともと自分のやっかみが根本にある。そんなものが根っこにある宣言なんて本当しょうもないのだけど、いつかブーム(島唄のブームではない)が去ったとき、ほらね!と言うためにここに書き残しておく。

あと、日記にして一回吐き出したことでさっきよりちょっと頭の中はラクになった気もする。だからと言って今夜はコラムは書かない。眠いので寝ます…。

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