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「大衆の反逆」は「大量人、もしくは平均人のヨーロッパ伝統と文化の打ち壊し」という意味でした。

   とても分かりにくい本でした

この本を1回目に読んだのは2018年2月。図書館から借りた本で、1971年発行という古い本でした。50年以上前の本なのに定価が2000円もしていました。当時としては高価な本だったのか、それとも日本の物価が超安定していたから、本の値上がりが殆どなかったということなのか。ちょっと考え込んでしまいました。

一回目に読んだ時の読書ノートは1ページだけ。
「よく分からない。あとで再読する。」とだけ書いてありました。ギブアップしたのです。その後、自殺した西部邁さんの「保守の真髄」を読んでから、2回目を読みました。

今回、note記事を書くにあたり、一回目にギブアップした理由を考えてみて、2つ思い当たりました

1.「大衆」という言葉に惑わされたこと。
日本語の「大衆」は辞書を引くと「労働者・農民などの勤労階級」のような説明があるように、「善良で働き者の弱い立場の人々」の語感を持っています。だけど、この本の「大衆」には「善い、弱い」というイメージはついていないのです。単なる「群れ」というだけです。本の中でも「平均人」と言い換えている箇所がありますし、西部邁さんの本では、オルテガの大衆を「大量人」と説明していました。平均人または大量人のほうが言い得ていると思いました。日本語に翻訳されると、オリジナルの言葉には含まれていないイメージが入り込んでしまうのですね。

2.ヨーロッパの歴史・伝統・文化・生活などを熟知していることを前提に書かれていたこと。残念ながら、これらのことに無知なので、何が問題だと主張しているのか飲み込めませんでした。

オルテガ

オルテガは、1883年ー1955年を生きたスペインの哲学者です。裕福なジャーナリストの家庭に生まれた、とありました。「大衆の反逆」は1930年(昭和5年)、オルテガ37歳のときに発表されました。1930年というのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間で、スペイン内戦の6年前という、世界中が不安定な時期でした。

現代日本人?

「大衆の反逆」の対象は近代ヨーロッパです。だから、他の国々、たとえば中東諸国、アメリカ、アジア、もちろん日本にも当てはまりません。
しかし、本のなかで「大衆」の行動を表現したり分析したりする部分は、そのまま読むと、まるで現代日本人のことを書いているのか、と思えるくらい表面的な現象が似ています。
読書ノートに、その部分を引用して書き写してありましたので、ここに紹介します。

大衆
格別、資質に恵まれない人々の集合。平均人である。労働大衆と解してはならない。
少数派
特別有能な個人、または個人の集団。

社会はつねに、少数派と大衆という、二つの要素の動的な統一体である。
社会を大衆とすぐれた少数派に分けるのは、社会階級の区分ではなく、人間の区分であって、上層、下層の階層序列とは一致するはずはない。

大衆とは
みずからを、特別な理由によってよいとも悪いとも評価しようとせず、自分が<みんなと同じ>だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる。そのような人々全部である。

大衆人とは

生の計画がなく、波間に浮かび漂う人間である。だから、かれの可能性と権力とが巨大であっても、なにも建設しない。そして、この型の人間がわれわれの時代を決定しているのだ。
大衆は二流の人間で、きわめてわずかの能力しか持っていないこと、生きる環境を与えてくれる組織を自分で創出することも保持することもできない。それを教えてくれる人も事物も存在しない。

慢心した坊ちゃん
人間が精いっぱい、とことんまでがんばることのない、いいかげんな態度で生きているところには、かならず道化芝居がある。大衆的人間は、ゆるがない運命の土台の上に足を踏みしめることがない。むしろかれは、宙ぶらりんの虚構の生をむなしく生きているのである。

オルテガの問題意識とは

大衆が社会的勢力の中枢に躍りでた。大衆はみずからの生存を管理するべきではないし、また、そんなことはできない。まして、社会を支配するなどは問題外である。だから、大衆が社会の中枢に躍り出たという事実は、民族、国家、文化が忍びうるかぎりの深刻な危機に、ヨーロッパが現にさらされていることを意味する。
大衆を生み出した近代ヨーロッパ文化の根本的な欠陥性はなにか。

ヨーロッパの平民新旧

オルテガは、ヨーロッパの過去の平民と新しい大衆を以下のように描写しています。大衆の問題点もさりながら、新しい大衆も過去の平民と同じように家畜のような暗く苦しい生き方のままでいるべきだった、とは思えないのです。この本のこういう部分をどうとも解釈できないので、今でも「分からない」ままです。

いまだかつて、平均人がこれほどの容易さで自分自身の経済的問題を解決できたことはなかった。

生の自由は過去の平民たちにはまったく存在していなかった。それどころか、かれらとって生は、経済面でも肉体面でも重苦しい運命であった。
かれらは、生きるとは、生まれたときから我慢するほかない障害の堆積であるから、ただその障害に適応し、残された狭い片隅に身を置く以外にしかたのないものだと感じていた。

19世紀中葉以来、なんらの社会的障害物をも見いださない、つまりもはや生れた時から社会生活のいろいろな部面で邪魔も制限も受けないのである。
新しい大衆は、生の完全な自由をなんら特別な原因によるものではなく、確立された、生得の状態だと見ている。上位の権威を考慮に入れるようにさせるものは一つもない。

内容をまとめてみたら、身も蓋もない内容になった

この本の内容を短くまとめてみたら、次のように身も蓋もないことになりました。本当はもっと深淵な本質が隠されているのに、読み込みが足りないから、こんな身も蓋もないまとめになったとは思います(たぶん)。

『資質に恵まれない、みんなと同じ行動をして流行に流されるのを喜びとし、波間に浮かび漂うような生き方をする二流の極めてわずかの能力しか持っていないヨーロッパの大衆は、昔のように自分の役割をわきまえて片隅でおとなしく生きておればよいものを、愚かにも社会勢力の中枢に躍り出て社会を支配し、ヨーロッパの民族、文化、国家を深刻な危機にさらしている。
これら大衆は生れた時からなにも制限をうけずに自由に生きられることを、まるで自然現象のように思い、自由に生きる環境を提供する組織を否定批判はするけれども、それを自分で管理したり作り出そうとはしないし、その能力もない。このような大衆を生み出したヨーロッパ文化には欠陥があるに違いなく、それは大問題であるから、それを解き明かさなければならない。』

つねに変化している歴史の流れの一コマ

オルテガは大衆の出現を次のように分析しています。

大衆は20世紀に突如として密集・充満する一塊の群衆として現れた。
都市は人で充満、喫茶店は客でいっぱい、ホテルは旅行客でいっぱい、散歩道は散歩者でいっぱい、・・・。

以前にはこのような群衆はいなかったのに、突如として現れたという変化。
変化が速かったから大きな危機だと感じたのではないかと推測しました。昔と同じようにゆっくりとした変化なら、ゆでガエルのように、危機だとは認識しなかったかもしれません。

大衆が現れた原因を、経済学者ヴェルナー・ゾンバルトの論文を参照して、19世紀から20世紀初頭における急激な人口増加を挙げています。
6世紀から1800年までのヨーロッパの人口は1億8000万人以上になったことはなかったのに、1800年から1914年の間には、約1世紀あまりで約2.5倍の4億6000万人以上に跳ね上がった。急激に人口増加したので、この世代の人間に「近代生活の技術」以外を教えてやることが出来なかった。つまり、伝統的価値観や歴史的使命の教育が欠如してしまったことで、問題児「大衆」が生れた。
また、それを可能にした環境として、自由民主主義、科学実験、産業を挙げています。

でも、オルテガが問題とした「大衆」が生れたことは、歴史の流れとか変化とか、そういうものだと思いました。それはヨーロッパ民族みずからがヨーロッパ伝統と文化を規範として選んだ歴史の道であり、ヨーロッパ人云々以前に人間の本能や欲望から選んだ道でもあると思います。

あえて原因というなら教育体制・教育システムの貧弱ではないか

人数が急激に増えて充分な教育が受けられなくなった集団があると、その集団の人間は「問題」になりやすくなる。これは経験ある方が多いと思います。
例えば、会社が急激に新入社員を増やしたとき、新入社員教育体制が急激な人数増加に対応できなかったと仮定します。その場合、新入社員は社員教育が不十分なまま職場に配属され、その後、その集団の社員はなにかと問題になるようなケースです。

敢えて、大衆問題を作り出したヨーロッパ文化の欠陥は何だったかに答えるとしたら、それは「平民の子供達を教育する体制やシステムが貧弱だったから」ではないかと思います。

やっぱり分からない

例えば、現在のインフルエンサーを利用したマーケティング手法や、テレビやインターネット等を利用して洗脳のような情報操作をしたり、「流行」を作り出したりする手法のベースに「大衆の行動」があるのは確かだと思います。他のみんなと同じことを好む人々が大勢いると分かっているのに、「大衆の行動」性質を利用しない手はありませんから。
しかし、こういう事は気持ちがすっきりしません。

今でも未消化感が残ったままの本です。そういう場合には普段なら、「もう一度読んでみるか」となるのですが、この本に関してはもう一度読む気がおきません。この先も読まないと思います。
興味がわかないといいますか、ヨーロッパのことね、という他人事感があるせいかもしれません。