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ナチスドイツで起こった道徳の崩壊。思考する能力と習慣がない官僚は有能な「歯車」として「陳腐な悪」をもたらす

この本は哲学の本なので難しいのです。もしかしたら、ここに書いたことは間違っていて落第点かもしれません。そのつもりで以下読んで下さい。といいますか、読むことをおすすめしません。今回の「責任と判断」noteは、自分の為の読書ノート整理として書いておこうと思った次第です。

福島原発事故の対応を理解したくて読んだ

福島原発事故の疑問

ハンナ・アレントの「責任と判断」。3回読みました。

最初に読んだのは2011年。
東日本大震災により発生した福島原発事故の関係者たち:政治家、中央省庁の官僚、地方行政の役人、東京電力の社員、原発や医療の専門家、ジャーナリストなどの対応に疑問を抱き、あの対応をどう理解したらいいのか分からなくて、頭の中に「言葉」と「実際に起きた事柄」が雑然と散らばっていた頃です。

文部科学省が作成していた放射線量予測マップの存在を隠していた。なぜ?
放射線量の測定をしていないか、していたのに測定値を隠していた。なぜ?
避難地域を狭くして原発事故を矮小化しようとした。なぜ?

ちゃんと放射線量を公表してくれていたら、住民が線量の高い地域へ逃げることはなかった。原発事故の際に一番重要なのは「見える化」。火事なら炎が見えるから何処が危険か判断できるけど、放射線は見えない。だから、計って計って計りまくることが重要。
あの時、信頼できる放射線量情報として見られたのは米軍サイトのマップ。
「フクイチの北西方向の地域に放射線量が高いホットスポットが存在する」と最初に公表し警告してくれたのは、確か、京都大学の原子力工学研究所の有志の方々だったように記憶しています。政府は知っていたのか知らなかったのか不明だけど、ホットスポットのある地域の住民を被爆させていた。

専門家でなくて素人でも、高校の物理を勉強したことがある人なら誰でも分かること。放射線量を計って計りまくるコトの重要性。なぜ、専門家の人達はそれをしなかったのか?民間にも政府機関にも専門家はたくさんいるはず。政府はその人達の活動を止めていた?もしくは計っても公表を隠していた?

なぜなら、将来必ずおきる原発事故に対する裁判の「証拠」を住民に握らせたくなかったから? そんなふうにも邪推した。

避難した方々のご苦労はもちろん理解できる。でも、人間だけではありませんでした。牛や豚などの家畜。犬や猫などのペット。写真を見ても、住民の方の話を聞いても、それは言葉にできないような地獄でした。もし、政府が原発事故を矮小化しないで「戻れない」くらい大きな原発事故であることを避難する人々に伝えていたら、家畜やペットに対する処置は違ったものになっていたと言われています。「直ぐに戻れると思ったから置いてきた」という方がたくさんいました。
結局、置き去りにされた家畜や犬や猫たちは、被爆した危険物として、飢えて死んでいきました。環境省も農林省も命を救うことは一切何もしなかったと記憶しています。危険をおかして動物たちを救いに行ったのは、保護活動などしていたボランティアの方々でした。

飛び込んできた<凡庸な悪、陳腐な悪><歯車理論>という言葉

どうしてこのような対応をするのだろう?
どうして何もしないのだろう?

そんな頃、大型書店で「責任と判断」の帯が目にとまりました。

<凡庸な悪>という恐怖
思考を停止してしまった世界で倫理は可能か?!

原発事故対応の真実は分かりようもないですが、ハンナ・アレントの「凡庸な悪、陳腐な悪」という言葉の中に、あのときの疑問に対する解が見つかったように感じました。「上からの命令に忠実に従う官僚組織の歯車となった、思考停止した平凡な小役人」の判断と行為があったのではないか、と。

もちろん、「上から命令」を決定し指示した人達の責任が一番重いことは明白です。でも、それを実行した日本の官僚組織(官僚化した会社)にも不安と不気味な恐怖を感じました。この先、例えば首都直下地震や有事のようなことがあった場合、いったい自分達はどうなるのだろうか。実際、新型コロナ感染拡大の初期の内閣と厚生労働省の対応には、原発事故の対応と似た「官僚組織の悪」の匂いがしたように感じています。

でも、救いもあります。東京電力の現場担当者が本社の命令を無視して、自分達の生命を危険にさらして対応に当たってくれたこと。消防や自衛隊の隊員の方々も危険に身をさらして対応に当たってくれたこと。被爆を心配する住民の検査や診療などを勤務する病院から禁止されてしまい病院を辞めて被爆者の対応に当たったお医者さんがいることなど。日本は大丈夫かもしれない。そんな希望を持ったりもしました。

ハンナ・アレントと道徳哲学

1回目に読んだ時の読書ノートには「分からない。もう一度読んでみる」とだけ書いていました。この本だけでは背景を理解できなかったので「エルサレムのアイヒマン」も買って読みました。こちらの本は<陳腐な悪><歯車理論>など、今ではほぼ俗語にもなっている言葉と概念で有名です。

2回目に読んだのは2013年。

3回目に読んだのは今年、2024年。noteに書くために読み直して、そして考えました。前2回読んだときは仕事をしていたので考える時間的余裕がありませんでしたが、今年は「年金生活者」なのでゆっくり考える時間がありました。

1906年、ドイツのユダヤ人家庭に生れる。マールブルク大学でハイデッガーに、ハイデルベルク大学でヤスパースに師事、哲学を学ぶ。1933年、ナチスの迫害を逃れフランスへ、41年にはアメリカへ亡命。20世紀の全体主義を生み出した現代大衆社会の病理と対決することを生涯の課題とした。1975年没。著書に「全体主義の起源」「人間の条件」などある。

「責任と判断」著者紹介ページより

著者紹介から分かるように、ハンナ・アレントはナチスドイツから亡命したユダヤ人であり、哲学者です。当然のように彼女の哲学の大きなテーマは、ナチスドイツ下におけるユダヤ人虐殺を題材とした「道徳の崩壊」です。だから「ユダヤ人問題」と「ナチス問題」を理解していないとアレントの理論展開についていけない。さらに、理論のベースは西洋・ユダヤ人の文明、宗教、文化、風習、道徳、常識なんですね。彼らの根底といいますか、土台といいますか、それにはアジア・日本人には理解できないものがあるとつくづく感じました。それは、最近のイスラエルのガザ侵攻を見ても同じことを感じています。

だから「責任と判断」のアレントの主張も、「言うことは分かった。でも同意はできない」という部分がたくさんありました。

思考と道徳の問題

アイヒマン裁判からハンナ・アレントは、人間の思考する能力と、善悪を判断する道徳的な能力の間に深い関係があるのではと感じ、その関係を次のように模索しました。

1.ナチスドイツにおいて、それまで自明とみなされていた道徳的な前提と原則があっという間に崩壊したことの不思議さを問う。

2.アイヒマン裁判で登場した「歯車理論」の虚偽をついて、「より小さな悪」という名目の空しさを暴露した。つまり、ナチスドイツでの道徳の崩壊が示したように、社会の土台とするものが一瞬のうちに転覆したとき、思考する能力と習慣がない人々は、新しい規範を当然のように受け入れるしかないということ。アイヒマンもヒトラーの原則を受け入れることで、有能な役人「歯車」として機能していた。

3.考える能力を喪失するということが、アイヒマンのような「悪の凡庸さ」をもたらすことを指摘。

実態に即して言えば「公的な地位に就く者が、国家の命令で犯罪に手を染めざるを得ないというナチスドイツにおいて、個人の責任はどのようなものであるか」という問いになります。

一方、ハンナ・アレントは、ナチスの命令に逆らって道徳的な無垢を維持することができた人々のことも考察しています。道徳的無垢を維持できた理由は、宗教心からでも良心からでもなく、「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない。そんなことをしたら、もはや自己を愛することも、自己とともに心穏やかに暮らすこともできなくなる。」という自己との関係性だったと考えました。
そして、哲学者のアレントはそれを「ソクラテスの示した命題」+「カント的な共通感覚、手本の概念」だとします。道徳的な無垢を維持できた人々の理由である「自己との関係性」を「他者との関係性」まで広げて模索し、次のように説明しました。

善と悪を判断するときに役立つのは、他者との共通感覚のうち、歴史のうちで作り上げられたさまざまな「手本」を参考にするしかない。善人や悪人の「手本」となる人物像を思い浮かべて、自分がその人物と同じような行為をなして、その「人物」とともに暮らすことができるかどうかを考えることによって道徳的な判断ができるようになる。

アウシュビッツ裁判においてアイヒマンを「思考する能力と習慣がない有能な歯車」と評しましたが、「自分で考えた」と評した人もいました。医者のフランツ・ルーカスという人であり、この人物を「自分で考えた」ことがアイヒマンとは大きく違うと評しています。
「ルーカスは自分がしたことについて考えたのであり、あからさまに犯罪的な国家の市民となることが、どのような意味を持つかを根底から自覚したときに、言葉を失った。」と。

映画「関心領域」ルドルフ・ヘスとアイヒマン

アレントの言う「陳腐な悪」「凡庸な悪」とはどのような悪か。筆者の解釈を述べておきます。

「誰でもいいから殺したかった」「彼女が別れるというから殺した」「苦しむ姿を見るのが快感だった」というのは「普通の悪」です。

家には奥さんと可愛い子供達がいて、家族で音楽を愛し、休日にはピクニックに出かけ気持ちのいい自然の中で美味しいランチを食べる。そのような平穏で幸せな暮らしをしている男性が、職場では、日に何十人何百人と殺す収容所ガス室のボタンを押す仕事をしている。人を殺したいわけではない。上からの命令で、ただ「ボタンを押すだけ」の仕事をしているだけのこと。命令された「ボタンを押すだけ」の仕事と、その仕事がもたらす結果の残忍さ、大きさを考えられない。それを「凡庸な悪」と呼んだと考えています。

決して、人を苦しめて喜ぶサディストや、刃物を振り上げて通行人を刺し回る異常者ではないのです。普通の暮らしをしている普通の人なのです。アイヒマンも家庭を愛する普通の人間であったとアレントは言っています。

今年2024年5月に「関心領域」という映画が日本で公開されました。この映画は2023年のカンヌ映画祭とアカデミー賞で賞をとった映画です。
アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその家族が収容所の隣で幸せに暮らしているというストーリーだそうです(映画を観ていません)。

観ていませんが、「思考停止した」凡庸な悪を分かりやすく描いた映画だと思いました。

主人公のルドルス・ヘスは250万人をガス虐殺したとして1947年に絞首刑になっています。(250万人は取り調べの際の拷問で誇張を強要された数字であり、最近では、110万人くらいであったろうとする見解が主流だそうです。)
彼が絞首刑になる前に書いた手記があるそうです。

「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私には羨ましい。私はそれと知らずに第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。」

「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし、大衆にとってアウシュビッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。

ルドルフ・ヘスが手記に書いたことはアイヒマンの有り様と同じであり、アレントの言う「上からの命令に忠実に従う官僚組織の有能な歯車となった、思考停止した平凡な小役人」です。

犯罪的な命令や法律に従うということ

コトの大きさは違うけれども似たような事例は現代でも、世界でも、日本でも起きています。「戦争で人を殺す」というのもそうだと思います。特に、イスラエルのガザ侵攻のニュースを見ていると「ユダヤ人虐殺」とかぶります。あれを行うイスラエルのユダヤ人の中には「やりたくない」と思う人も(たぶん)いることでしょう。中国の密告制度などもそうかもしれません。密告が犯罪的かどうかは疑問ですが、「人間として、道徳的かどうか」という問題には抵触します。「嫌な法律だ」と思っている中国の方もいると思います。

日本では、最近頻発している企業の「検査の不正」などがあります。やりたくないけど、上司の命令でやっていた。ということですね。

アレントは次のように指摘しました。

思考する能力と習慣がない人々は、新しい規範を当然のように受け入れるしかないということ。アイヒマンもヒトラーの原則を受け入れることで、有能な役人「歯車」として機能していた。

自分の頭で考えることが大切であるということは分かるけれども、難しいのは、「食べていく糧を稼がねば、自分も家族も生きていけない」ことです。もしかしたら命令を拒否することは命を奪われることと直結するかもしれないことです。

考えることは一人でできることで自己完結しますが、実行することは組織や社会の中で大勢の人達との関係性の中での行為であり、複雑で難しいということです。

でも、原発事故や新型コロナ感染のようなときには、まさに自分の命に関わる問題なので、国家の公的な仕事をする人だけでなく、企業で働く人にも、「道徳的なことを思考する能力と習慣」の必要性について考えていて欲しいと勝手に望んでいます。