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折り鶴と黒い蝶

 「折り紙がお好きなのですね」グアム島へ向かう機中で優しい声がした。顔を上げるとキャビン・アテンダントの女性が微笑んでいた。「祖父がグアムで戦死したので家族揃って慰霊に千羽鶴を持っていくところです。あと少しで千羽になるので皆で頑張って追っているのです」と前席の次女が孫娘のみいちゃんと手を動かしながら答えた。「そうなのですね。通りで皆さん折っていらっしゃるのですね。折り紙のお好きなご家族なのだナと好もしく見ていました。もう少しで千羽になるようでしたらお手伝いしてもよろしいでしょうか」との申し出。「お忙しいのに、大丈夫でしょうか」「少しの時間なら空きます。私共も千代紙を持っていますので他の乗務員にも声をかけてみますね」と前方の控室へ消えた。
 
 その会話を聞いていた右隣の若い女性が「あのー、私もお手伝いさせていただいていいでしょうか。保育園で働いていたので折り慣れていますから」とのこと。「よろしくお願いします」ということで折り紙を数枚お渡しした。またたく間に折り目をのきちんとした美しい鶴達が10羽も揃った。そして間もなくグアム空港に着いた時、キャビン・アテンダントの皆さん全員で折って下さった20羽ほどの千代紙柄のすてきな鶴も袋のままいただきお礼を申し上げた。「お陰で千羽超えました」と娘が笑顔をみせた。

 このようにして我々一行12名の家族夏旅行は始まった。小学生から大学生迄5人の孫達にとって72年前に戦死したひいおじいちゃんへの慰霊の旅であった。

 第一日めは戦跡巡りに詳しい探検家のガイドさんが朝8時に大型バンでホテルへ迎えに来てくれた。長袖長ズボン帽子水筒と準備は全員O.K.。ガイド氏はニコニコと人当たりもよく小学生の孫達とも握手してさあ出発。

 車中運転しながらグアム島の説明。チャモロ人の島で歴史は古いが1521年にマゼランが発見し世界に知られることになったこと。1565年にスペインに征服され、その後アメリカが占領し、1941年日本がハワイの真珠湾奇襲作戦の後グアムも襲い日本の管理下に入り、第二次世界対戦で再びアメリカが支配することになり現在はアメリカの準州になっていること。豊かな自然があり、常夏の気温で住みやすく気に入っていることなど話してくれた。
 
 最初にニミッツヒルに案内された。日本兵の洞窟がありジャングルの中を兵隊さん達の跡を少したどった。脚を痛めていた私は入口を少し入ったところで夫と待っていると、グアムに来る度に見かける黒い蝶がひらひらと飛んできた。「やあ、よく来たね」と言っているようだった。そういえば20年前、戦後50年の慰霊祭の時、初めてグアムを訪れてホテル街のすぐ裏に広がる美しいタモンビーチを歩いていると、次々と黒い蝶がそれも5羽も6羽も飛んできて驚いたことを覚えている。

 そしてゆずの村として有名になった馬路村の温泉に泊まった時もやはり部屋の前に黒い蝶が2羽飛んできた。しかも温泉風呂に入って部屋へ戻ってもまだヒラヒラ舞っていた。戦死した父の育った村の隣村である。「やあ、お父さんは隣の村で育ったよ」といっているようで本当に不思議だった。そういえば草部文子作の平和祈念演劇「ぞめきの消えた夏」にも必ず黒い蝶が表われる。南の島で亡くなった多くの兵隊さんの魂かも知れない。

 そんなことを思っているとガイドさんに連れられて皆が出てきた。その後日本軍の大砲が三基残されているピティへのジャングル・ハイクをし、最大の激戦地アサンに向かい、米軍上陸地点や太平洋戦争歴史ビジターセンターを見学し、グアム戦のビデオを見た。入り口には日本軍の二人乗り潜水艦がその黒く長い胴体を静かに横たえていた。

 昼食後はアガットへ向かった。アサンに次ぐ激戦地である。28年間も密林で一人頑張って生還した故横井庄一氏の字「和」とその下に平和という意味のラテン語が刻まれた黒い慰霊碑が海の近くに建っている。8年前の建立式に立ち会うことができた。靖国神社から神宮様お二人とカソリック教会の神父様三人が祈りを捧げ、現地高校生の歌や元埼玉県教育庁竹内先生のハモニカ演奏など心温まる集まりを持った。今回心をこめて折った千羽鶴やお供えを置き「ふるさと」を歌って兵士達の冥福を祈った。

 そしてバンは南へ走り、メリッサに向かった。カラバオとよばれる黒い水牛が野生でのんびり草を食んでいる。マゼランが最初に上陸した辺り、気に入ったことだろう。

 メリッサは日本軍がチャモロの人々を疑って虐殺した場所で、戦争とはいえ悲しい事実、チャモロの人達は「忘れないけれど許します」という。慰霊碑に黙祷をした。優しさに甘えず真の友好を築かねばと考えさせられた。

 最後に北のジーゴの太平洋戦没慰霊公園の白い合掌形の慰霊塔へ走った。グアム戦最期の大きな戦闘後、軍司令官が自決した昭和19年9月30日に玉砕と公報された。終戦の1年前である。重い事実に頭を下げ千羽鶴とお供えを置き娘と孫がリコーダを吹き全員で「ふるさと」を歌った。千羽鶴に平和への思いを託して我々の戦跡巡りは終った。

 翌日はリゾートの一日、デデドの朝市、恋人岬、プールスライダー、ビーチ遊び、マジックショウ見学などのびのびと楽しんだ。夜は集まって感想会をひらいた。
 
 300万人の若者が命を失った戦争。グアムには2万人の兵士達が送られた。生還したのは1割程、遺骨はまだ500柱しか帰国していない。でもこの常夏の島のどこかで命を落とした父の魂が、我々の夏旅を喜んでくれただろう。孫達が大きくなって又グアムに行く時は一羽の折り鶴をバッグに入れて必ず慰霊碑にお詣りしてからリゾートで遊んでほしい。ひいおじいちゃんが黒い蝶になって迎えてくれるだろう。

              (市民文芸「さやま」21号   2017/3   掲載)

 

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