わたしをのんで
ちーは、最近楽しそうにしている。
まあ、本人はそれを表に出すことはしていないけれど。
精巧に作られた呆れ顔に隠すようにして、口元を緩ませていることくらい、わかっているのだ。でもそれを詰るような真似をして彼女を虐めるのもなんとなく憚られた。だって彼女はとても打たれ弱いから。
ちーが見ていたのは私だけだったのにな、と一宮千冬は目を伏せる。
彼女の笑顔を閉じ込めた呆れ顔を見る度に、自分の胸の中に黒い感情が渦巻くのを感じてはそれを隠して彼女を小突く。
小突いていた。
『私がミステリアスだってさ、キャラクターも生きた人も秘密が多いに越したことはないだろうと思うんだけどな』
『姿を褒められてるよ。千冬のデザインが認められているってことじゃないか』
『褒められている声も千冬の借り物なのにね。本当に、私じゃなくてお前がすごいだけだよ』
今日ついにそのお喋りをやめない口に、痺れを切らしてあのさ、と口を挟んで。
『 』
あれ、何を言ったっけ。でもちーがずっと同じ表情のまま固まっている。
でもさ、でもさぁ。ちーってそんなに人間らしかったんだ。自分のことを褒められて嬉しくなっていちいち報告しに来るようなそんなうざったくて煩わしいところがあったんだ。
こんな事言いたくなかったよ、でもさ。
私の言葉以外でヘラヘラしないでよ、ぐちゃぐちゃに崩したくなっちゃうじゃん。
もう、“私”は暫くちーの前には出てこられなかった。
一宮千冬がその異変が起こったことに気づいたのは、割とすぐのことだった。
“苺宮チフユ”の身体の主導権と、意識がなくなっているらしかった。
前と同じで一丁前に傷ついて、私の干渉できない場所へと閉じこもっているらしい。
面倒だから早く出てきて動画作って人をぐちゃぐちゃのケーキにしてほしいんだけど、それも私が動かないと叶わなそうだ。
『…うーわ、肯定ばっか。まあ、ちーは傷付きやすいしこれでよかったかもしれないけど。』
こんなのが毎日来てたら、キャラクター生12年、人間一年生の赤ちゃんはあっという間に影響されて確かに丸くなるのかも、しれない。
喉元から汚い言葉が漏れ出しそうになるのを収まらせようと冷蔵庫の扉を開ける。
そこに、その黒い内容物の入った瓶はあった。とうに空っぽのはずの冷蔵庫の中に転がされて、確かにそこに存在した。
『DRINKME…?』
その瓶の輪郭はゆらゆら歪んで、こちらを挑発しているようだった。
その瓶からは、なんとなく嫌な気配がした。嫌な気配というのは、こちらがその内容物を飲むことをわかっているような、そう仕向けるような用意の良さを感じるような、そういうところ。
瓶に触れようと手を伸ばすと、空間が黒い色水のようなものと一緒にふわりと歪む。
その歪んだ空間の中にちーの屈託のない笑顔が映し出された気がして目をぎゅっと閉じて、舌打ちを一つする。
冷蔵庫は言わずもがな、水道管もクリーム塗れ。選択肢は最初から一つ。
その瓶をきっと睨んで、手を伸ばした。
あれ、意識の裏側にちーの気配がする。
この怪しい液体に触れるのを、止めに来たのだろうか。起きるのが遅いんだから。
『どうせ醒めない悪夢なら』
『一番奥深くまで沈んでしまえ』
パキ、と胸辺りから何かの割れる音。支えを失って身体のバランスが崩れる感覚。
頭の中に靄がかかったような感じと全能感が一気に襲いかかってくるような感覚。
『…。』
隣に“苺宮チフユ”の身体が倒れていた。
自分?の手元を顔に近づけてみると、いつもの白いそれとは違う黒い袖と腹あたりがすうすうする感覚がして、身につけているものが違っていることからも自分と彼女の身体が別離したのだと半ば直感的に悟った。
辺りを見回して、一つ思い出した。
ああそうだ、自分の手でやりたいことがあった気がする。
ソファーで身体を沈めているもう起き上がらないのにどこも腐敗していない両親。見る度に頭の中に虫が這うような気持ち悪さに悩まされていて、ずっとどうにかしたいと思っていた。
母親の頬に手を当てて、一言呟く。
『崩れろ』
途端に母親だったそれがグチャ、と音を立てて粘性のある苺ジャムが中から飛び出した。もう人の形なんて留めていない、白と薄黄色でできた塊がそこにあった。
❴あなたはどんなふうになっても私の―❵
『崩れろ!』
ぐちゃり。
甘ったるい死臭に、原型を留めていない父と母の姿に、乾いた笑いが喉から迸ってくる。可笑しくて可笑しくて、仕方なかった。
『…あはっ』
『あはは、あっははははは!やっとすっきりした!そうだよ、私にはもうちーしか居ないの、そうだよ、だから。』
『他の言葉なんてノイズに過ぎない。ちーにもそうであって欲しいの』
『ねえねえ、寝たふりなんてして、もっと見ていたかったの?でもたかが人間2人、崩すのなんてすぐなんだなぁ』
引きつったような小さな息遣いがした方へ笑みを向けると、そこに意識を取り戻したチフユがいた。
『…千冬、おまえ』
目の前の彼女が餌を求める金魚のように意味なく口を動かす様が可笑しくて笑うと、首元を両手で持ち上げられる。
『返せよ、私が手足になりさえすれば良かったんだろ、自分から人を害するなんて自分の親を崩すなんて千冬はやらなかっただろ、千冬を返せ…!!』
『あらら、解釈違いってやつ?でもさ。』
ちーは私以外の言葉に絆されたよね。
崩したくないって願ってしまったよね。
ひゅ、と目の前の彼女が息を詰まらせる気配がした。
『だから“私”がこの女の子とケーキを崩す役をやってあげようかなぁって協力してあげただけなんだよ?“ちーちゃん”』
『お前、なんなんだ。今のお前は、何者なんだ…?』
そうだなぁ、と“私”は軽く伸びをして言葉を続ける。
『強いて言うなら、キミたちが見ようともしなかったキミたちの創作の負の側面。スケッチブックの中で生きてた君が少しずつ嫌われ者から愛されるようになって省かれていった暗い部分。だって自分で生み出しておいて要らないから捨ててしまうなんて都合が良すぎるでしょう?』
『…人の体を借りて私と並ぼうとするなよ、どこの舞台にも出てこられない黒子風情が』
『大切なお母さんだもんねえ!でも安心して、ちょっとだけ弄るけどキミのことを好きなままのお母さんとして残してあげる』
『お前の言う事は何も信用できない、さっさと千冬を元に―』
『戻らないよ?君がお母さんの身体を乗っ取って一人の身体に二人で入ったときから始まっているんだからさ』
『…!』
その目を見開いて瞼をびくつかせる姿がとても哀れで、少し突きたくなって次の言葉を吐いた。
『…可哀想にね、キミがいなければお母さんはもう少し人間としてまともに生きられたかもしれないのに!』
『おはよ、ちー!よく眠れた?』
『………』
黒と青紫の混じった髪に、自分とよく似た白皙。千冬…千冬のような誰か。
前のような不明瞭な存在に意識は侵されていないようだが、言動が危なっかしい。
『こいつ、邪魔だなぁ。有象無象の癖に。崩れ―』
『やめろ千冬、あと数分でどうにかなるだろ…』
『ヤダ!今じゃないとやる気出ないの』
『……、』
本当に、彼女がこうなったのは自分のせいなのだ。ああ、でも。
『今日はたくさんこっち向いてくれるね』
たまに見せる表情がとても千冬に似ていて、その顔を自分の目で見られることだけはよかったなんて思うのは、
『えへ、私もちーのこと大好きだよ!』
きっと私もとっくにおかしくなっている。
そう思って考えることから逃れるように目を伏せた。