肉眼で見る景色だけを信じたい


自分が行ったコンサートのアーカイブって見るか悩みませんか?


私はめちゃくちゃ悩む。そして、見ないと思う。

そりゃあんなに楽しかったんだからもう一回見返せばいいじゃん、の気持ちもあるし。おたく(というかわたし)ってふつうにわがままだから映像を作品として残せってすぐに言うのだけれども、そもそも作品として残った映像って自分が想像するよりもたくさん見返すものじゃなくて、結局映像としてちゃんと残っているはずなのに、カッスカスになった自分の脳内HDDに残った、自分の座席から見えたコンサートのどこにも投影、共有できない脳内映像を何度も何度も再生してしまう。残ってほしいって騒ぐ割に、残らないその場限りの刹那的な、そういうところに思いを馳せて愛を見出してしまう人間になってしまったので、界隈が変わろうとも疫病で世界が変わろうともこの気持ちが変わることなんてなかった。


私は本当にコンサートをナマモノとして捉えているし、そこから発せられる生命力を本気で信じている。映像コンテンツや文字を通じて好きになった人がいたとしても、生で見たときのバイタリティでコロッと好きな人が変わっってしまうこともある。グループ全体を俯瞰で見たいと思っていたはずなのに、気づいたら特定の人物を執拗に視線は追っていて、帰り道にはその人のことしか考えられなくなるような奇妙なあの感じが好きだ。それに、生で見た瞬間に好きになるって、好きになった瞬間のことを思い出すたびに美化されていくというか、記憶を宝箱の中にしまって頻繁に開けることがなくなっても朽ちることなく、ふと開けたときにぴかぴかに磨かれてきらきらと輝きを増しているようなあの感じも、とても好きだ。その瞬間をもう二度と経験することができない、という希少さと鮮烈さを、一生美化していくことにロマンを感じる。


スポットライトが当たらなくても全力で踊ってる姿だって、みんなが話している中こっそりと手を振っている姿だって、めちゃくちゃ声を出しているのに届かなくて全然拾われていない姿だって、全部ちゃんと、自分が満足するまで、自分の目で確認できる。そんな生の空間が大好きだから、私はやっぱり会場に行きたい。配信という形をとってくれるすべてのメディア媒体に感謝の気持ちをこんもり抱えた上で、私はやっぱりあの空間が大好きなので、ずっと日本中の会場を駆けずり回る人間でいたい。これが私の生きる意味。私が生きるために世界よ、はやく平和になってくれ。

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