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アイヌ民族は、北海道の先住民

年表

北海道には弥生時代がなく、縄文文化→続縄文文化→擦文時代、その後アイヌ文化が始まりました。
上の画像:『北の古代史~続縄文』
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/01/113.html

★「日本の歴史では、縄文時代の次は、弥生時代とされていますが、北海道には弥生時代は存在しません。北海道を時代別に分けていくと、旧石器時代、縄文時代、そしてその後に『続縄文時代』、『擦文(さつもん)時代』と続き、そこからアイヌ文化の時代へ移ります。。。
擦文時代が終わると、アイヌ文化の時代が始まりました。この時代では、土器に代わって漆器や鉄器が使用され始め、人々の住まいは、竪穴式住居から地面をそのまま土間として利用する平地式住居へと移行していきます。この時代の狩猟採集民族、アイヌの血を受け継ぐ人々は、現在も北海道やロシアに居住しています。」
引用:『北海道には弥生時代がなかった、って知ってた?』https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/354/

★北海道礼文島船泊遺跡 (約3800~3500年前;縄文時代後期)から出土した女性の人骨から、ゲノム(全遺伝情報)を高精度に解析!
「遺伝子の特徴から、女性の肌はシミができやすく、耳あかに湿り気があり、髪の毛は細く縮れていたとみられる。船泊の縄文人は脂肪が多いアシカなどを食べていたとみられ、高脂肪食に適応した遺伝子変異も見つかった。
 さらに、現代日本人が縄文人のゲノムの約10%を受け継いでいたことも判明。東アジアでは、大陸にいる漢民族より韓国、台湾、フィリピンにいる人に近いという。」

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上の画像;北海道礼文島の船泊遺跡で見つかった人骨やDNAの分析結果から、推定し復元した縄文人女性の像(国立科学博物館提供)と
引用:『茶色の瞳、酒強く…礼文島の縄文女性ゲノム解析』読売新聞(2019/05/13)
https://www.yomiuri.co.jp/science/20190513-OYT1T50209/?fbclid=IwAR3ppF678RSQAd35zL649C1Hdo2EFtLtivf6veEt_3rnE4atfOuViHYd9pA

★「古代文字」を「古代文様」に格下げした、北海道余市のフゴッペ洞窟
「ここ(注: フゴッペ洞窟)は戦後の昭和25年(1950)、考古学好きの少年がたまたま手宮洞窟と同様の岩肌に刻まれた文様を発見。その後、日本海をはさんでロシア沿海州のアムール川周辺に同様の岩壁画が数多く発見されるに及んで、それらが「古代文字」ではなく「古代彫刻・文様」であるという学説に落ち着くようになったらしい。」
引用:『挽歌に封印された古代文字の謎 その2』前田和夫
https://webronza.asahi.com/cul…/articles/2019121000003.html…

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上の画像(北海道余市のフゴッペ洞窟の「古代彫刻・紋様」):https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/syoukai/fugoppe.html

★オホーツク文化とは
「約1500~800年前、続縄文時代の終わりから擦文時代に重なる頃、オホーツク海沿岸部を中心に分布していた文化です。擦文文化をになった人々とは異なる外来の民族が残した文化で、住居のつくりや使っていた道具などから異なる生活文化をもつ人々であったことが分かっています。オホーツク文化の遺跡はサハリン、北海道北部・東部から千島列島にかけての海岸沿いで見つかっています。漁撈(ぎょろう)や海獣狩猟など、海での暮らしに特化した海洋民族と考えられています。
 長らく栄えたオホーツク文化ですが、約800年前頃には姿を消してしまいます。オホーツク文化の終わりについてはまだ謎に包まれていますが、オホーツク文化のクマを崇拝する風習などには、その後のアイヌ文化との関係も指摘されています。」引用: https://www.city.kitami.lg.jp/docs/7287/

★オホーツク文化とアイヌ文化との関わり
「出土した遺物の特徴について早稲田大学の菊池徹夫名誉教授(北方考古学)は『動物に対する信仰の念が顕著だ。熊頭注口木製槽はヒグマとシャチが刻まれている。擦文文化ではこうした動物儀礼の例は知られておらず、ヒグマを山の神(キムンカムイ)、シャチを沖の神(レプンカムイ)として敬うアイヌ文化に大きな影響を与えたのではないか』と指摘する。」
引用:『謎の北方海洋民族の生活いきいき アイヌ文化に大きな影響』
https://style.nikkei.com/arti…/DGXMZO91841700X10C15A9000000/

★「擦文時代が終わった後、14・15世紀以降がアイヌ文化の時代となります。」
引用:『ところ遺跡の館展示案内:アイヌ文化』
https://www.city.kitami.lg.jp/docs/7288/
タイトル画像:ところ遺跡の森 http://www.okhotsk.org/news/masukomi2010.html

★「擦文文化を担った人たちがオホーツク文化の影響を受けながら、アイヌ文化を形成したと考えられますが、その年代などについては、まだはっきりとはしておりません。
 近年、北海道南部の上ノ国(かみのくに)町の遺跡から、16世紀末から17世紀初めごろに使われていたと考えられる、イクパスイと呼ばれるアイヌの人たちの祭具が出土しており、こうした考古学の発掘等により、古い時代のアイヌ文化の様相が次第に明らかになってくると思われます。」

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上の画像;上ノ国町市街地宮ノ沢川右岸地点から出土したイクパスイ (上ノ国町教育委員会蔵)
と引用:『アイヌ文化まで』https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/culture/together/details/post_1.html

★★「そもそもアイヌは、かつて自在に行使することができた各種の権利を(権利意識などないままに)有していた。鮭等の捕獲権、熊・鹿等の狩猟権、各種木本・草本の採集・利用権、言いかえれば河川・山の利用権等がそれである。
 だが『開拓使』はそれらの権利を剥奪した。北海道という名称付与もアイヌモシリ(アイヌの静かな大地)の無主地扱いもそうだが、これらはアイヌに何の相談もなしに開拓使が決め、後に3県庁(函館県・札幌県・根室県)および道庁がより大きな規模で追認した施策である。特に道庁は、『北海道国有未開地処分法』により、『他に従来の採取生活を続け得べき広大な未処分未開地」』(高倉新一郎『アイヌ政策史』日本評論社、1942年、534頁)をアイヌから最終的に奪いとった。」

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上の画像(サケを祭壇に供え、川の神に祈るアイヌの儀式「ペッカムイノミ」=2015年、白老町)と
引用:『アイヌから奪われた「先住民の権利」とは何か』杉田聡 (2018/08/15)
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018081400004.html
注:「ペッカムイノミ」とは、初サケを迎えるアイヌの儀式です。


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