『乃木伝説の思想』(橋川文三)から『歴史と文学』(小林秀雄)へ(上)

 明治から大正に御代が変わる時、乃木希典将軍は妻と共に自裁した。この事件をテーマに、日本のナショナリズムを、左右のイデオロギーから離れて、明治以後の近代化に対する庶民の精神史としてとらえた思想家、橋川文三が、1959年『乃木伝説の思想』という評論を発表している。本稿は、御代替わりの今年、この評論を再読しつつ、様々な思想家、文学者を通じた「乃木希典」の世界について再考してみたい。

白樺派の嫌悪と、芥川龍之介の「将軍」

 乃木将軍の自裁に対し、当時の「若き世代の進歩派文化人」というべき人々は、決して肯定的ではなかったことにまず橋川は触れ、武者小路実篤、志賀直哉などの言葉を引用している。彼らにとって、乃木の死とは、古い時代の封建的遺制の象徴のように思えたのだ。
「乃木さんが自殺したというのを英子からきいた時、馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた。」
 これは志賀直哉の日記である。橋川は、明治時代に封建制を批判した、福沢諭吉の「楠公権助論」(楠木正成の忠義も、主人に与ったお金を無くして責任を感じて自殺した一人の小僧の忠義も、原理的には同じものだとする論)にどこか通ずるような論として紹介しつつ、同時に志賀の言葉に「福沢諭吉の歴史理解と比べ物にならない浅薄さ」を感じさせる文章だと指摘する。
 そして武者小路実篤は、いかにも彼らしく西洋の芸術家との比較で乃木を批判している。
「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と言い、乃木大将を目して人類的の分子を少しも持たない人」と自分はみなす。また同じ自殺でも「ゴッホの自殺はそこへ行くと人類的の処がある」。
 このような文章を現在の視点で読むと、橋川同様「乃木はまさか己の自殺がゴッホと比較されようとは思いもよらなかったであろうが」と誰しも言いたくなるのではないだろうか。ここにあるのはあからさまな西欧崇拝であり「人類的」という言葉を使えばナショナリズムや旧世代の限界を簡単に乗り越え、自分が『普遍的』な存在になれるという知識人の傲慢さである
ただ付け加えておけば、志賀も武者小路も、もちろん文学者としてそんな単純な人間ではなかった。彼らはその後の創作活動を通じて、このようなある種能天気だった自分を否定していくことになる。ただ、彼らの出発点がこのような単純な西欧讃美だったことは「白樺派文学」を語る上で重要であろう。
 このような単純な乃木批判とは異なり、多少、陰陽を感じさせるのは、芥川龍之介が大正10年に乃木将軍をテーマとして書いた小説『将軍』である。ここでは芥川は、乃木将軍を多少カリカチュアしつつも、日露戦争における戦場の兵士、中国人間諜への尋問と処刑の現場、戦場慰問に来た芝居を観劇する兵士たち、それぞれの眼から見た将軍を描き分けることによって、乃木将軍の姿を多角的に描こうとしている。
だが、この作品がやはり芥川のものとしては完成度の低いものに終わっているのは、いまだにくっきりと残る当時の検閲のせいだけではなく(元原稿の喪失により、当時の伏字がそのまま残されている)登場する人物の精神が、日露戦争当時の兵士のそれではなく、大正時代の、既に近代化され、国家や地域共同体との一体感を失いつつある庶民意識に根差しているからである。そして、本書の最終部、大正の時代を生きる青年は、明治の時代を回顧し、乃木将軍を讃える父親にこう語る。
「僕は将軍の自殺した気持ちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真を撮ったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこかの店頭にも飾られることを・・・」
ここで青年は、乃木が自裁前に細君と写真を撮ったことを、死後、人々に讃えられることを望むある種の自己顕示を思わせる心情とみている。父親は思わず反論し、乃木将軍はそのような俗物ではなかったと語るが、青年は、その気持ちを理解しつつもこう答えるしかない。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だったことも想像できます。唯その至誠が僕らには、どうもはっきりのみこめないのです。僕らより後の人間には、猶更通じるとは思われません」
 ここでの芥川の文章には、志賀や武者小路のそれとは異なり、乃木将軍を理解しようとする姿勢を感じさせる。しかし同時に、既に大正という時代を迎え、乃木将軍の生にも死にも、どこか理解しがたいものを覚えている作者の姿もまた率直に表されている。

森鴎外の乃木将軍への共感

 乃木将軍の自裁を、文学として最も高いレベルに昇華しえたのは、夏目漱石の『こころ』、そして森鴎外の『興津弥(おきつや)五右衛門の遺書』だろう。しかし、よく触れられる『こころ』ではなく、歴史小説の形を取りながら乃木将軍の自裁の意味を深く思考しようとした傑作として、本稿では後者を取り上げたい。
 この鴎外の短編は、肥後熊本における武士、興津弥五右衛門の自裁の際の遺書の形をとっている。彼は1645年、主君の死と同時に自裁、殉死の道を選んだ。それには、以下のような遠因があった。
 主君より、興津弥ともう一人の武士、横田清兵衛が、茶事に用いる品を買ってくるように命じられた。伽羅の大木が売られており、二人はこれに目を付けたが、仙台藩からも同じ名を受けて買いに来ているものがおり、セリとなった。値段はどんどん吊り上がっていく。
 横田は、このような玩具に等しいものにそれほどの大金をかけるべきではないとし、高い木をあきらめて、安いもので我慢しようと言い出した。しかし、興津弥は聞き入れない。主君が最も珍しく良いものを望んでおられるのだから、いかに高価だろうとそれを求めるべきだ。あまりに頑固な態度に、興津弥は説得しようとする。なるほど、これが武具や、家にとって大事な品物ならば確かに無理をしてでも最もよいものを買おうとするのは当然だ。しかし、これは単に茶事の品にすぎぬ。そのようなものに貴重な公費を費やすべきではなく、もし、主君がそれを望んだとしても、あえて安いものを買って主君を諫めるのが忠臣というものだ。
 ところが、これに対し興津弥はこう言い放つ。
「某はただ主命と申もうす物ものが大切なるにて、主君あの城を落せと仰おおせられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、(中略)その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。」
これは論理としては極論である。この後口論となり、興津弥は横田を切り捨ててしまう。そして興津弥は主君に、責任を取って切腹することを申し出るが、主君はそれを許さず、生涯自らに忠義を尽くすことを命じ、興津弥は主君の死と共に自裁する。
ここでの興津弥の論理と行動は、当時の時代ですら果たして万民に納得のいくものだったとは思えない。論理としては、公費を無駄なぜいたくに使うべきではないとする横田の論のほうがはるかに通っており、より「近代的」ですらある。しかし、ここで興津弥が貫いたのは、戦国時代に、主君と武士の間に築かれていた、「戦士共同体」を貫く思想なのだ。
主君と自分の間には純粋な信頼関係が成り立っており、その信頼に命を賭けて答えることだけが、唯一の正しい行為であり、それ以外の論理はすべて夾雑物に過ぎないという精神、これが興津弥が守ろうとしたものである。そして戦国時代の、敵方の城を取る、大将の首を取るといった、戦場において貫かれるべきその精神は、平和な徳川の夜が来ても武士と主君の間には貫かれねばならず、仮にたかが茶事や娯楽のための品を求める際も同様である。それがいかに戯画的に見えようとも、その信念において興津弥は横田の合理精神の上を行く価値観に生きているのである。
鴎外が、乃木自裁の直後にこの小説に挑んだのは、明治という時代、維新革命と戦争の時代を「戦士共同体」における大帝と部下として生きた明治大帝と乃木将軍の間にも、やはり同じ忠義の精神が貫かれていたと信じたからである。そしてそれは、おそらく鴎外の中にも、明治の精神として共有されているものでもあった。

萩の乱 乃木希典の原点

 そして、橋川文三の慧眼は、乃木希典の原点、特にその自裁の原点を、乃木自身が書き残し、人々もそれを信じた、西南戦争において西郷軍に軍旗を奪われた責任を取ることではなく、また、日露戦争における多くの戦死者への責任だけでもなく、明治初頭、彼が精神的には最も近い存在だった長州藩の士族反乱を、自らも討伐せざるを得なかったことにあると見抜いたことだった。
明治8年12月、乃木は熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に赴任する。明治維新直後から、長州では、明治新政府への不満が相次いでいた。維新と戊辰戦争に尽くした長州の諸隊は、政権の座に就いた木戸孝允自身の命によって解散を強いられ、それに反抗する部隊は討伐された。彼らは単なる不満士族ではなく、維新革命が彼らの信じてきたような尊皇攘夷の理想とは異なり、単なる近代改革に過ぎないことへの不満、さらには、犠牲を払って討幕のために血を流した同志たちを邪魔者扱いにする指導者への怒りだった。
この士族たちは後に、彼らに同情的な前原一誠のもとに集結していく。乃木の実弟の玉木正誼は、乃木にもに前原一誠の乱に参加するよう説得した。しかし、乃木は参加せず、代わりに、明治政府の権力強化をひたすら目指した山県有朋に計画を通報している。明治9年(1876年)、秋月の乱が起きると、乃木ははこれを鎮圧。直後、山口県で萩の乱が起こり、弟の正誼は反乱軍に参加して戦死、攘夷派で乃木の師だった玉木文之進は、自らの門弟が反乱軍に参加したことに対する責任をとり自刃した。
この乃木の姿勢は非情とは言えない。明治体制がほぼ安定期に入るのは大日本帝国憲法が発布される頃であって、それまでは、維新政府は士族反乱のみならず、大規模な農民一揆(これは税制度の導入、義務教育、徴兵等の近代的改革が伝統的な農村社会をある種「破壊」していく中で起きた、農民たちの江戸時代の一揆よりもはるかに広がりを持つ反対運動だった)民衆の政治不信、外交における諸問題など、政権担当者たちは常に危機にさらされていた。彼らは元々、江戸幕府という伝統権力を武装闘争で打倒した「革命権力」でもあった。逆に、自分たちの権力に対する反乱を徹底的につぶさなければ、そのような権力はまたすぐに倒されるという、政治における力学を知り尽くしてもいた。
「極限的政治状況においては、あるロヤルティを抱懐することは、状況的必然として死もしくは殺人を意味していた。(中略)あるロヤルティの維持は、そのために名がさえれた流血の全量を支えることであり、忠義であることは殺すこと、もしくは死ぬことであった。」(橋川文三)
 ここには、革命や戦争のさなかに表れる、政治という者の最も暴力的な姿が描かれている。ある政治的立場に立つことは「奴は敵である、敵を殺せ」という論理をそのまま受け入れなければならない、それが幕末から明治初期にかけての時代状況だった。乃木をはじめ、当時の明治の志士たちは、その立場を異にしてもこの政治の原則は受け入れざるを得なかったのである。
しかし同時に、乃木は明治政府を守る立場に身を置く軍人としての務めを果たすとともに、本来は友であり同志、肉親ですらある人々を政治的に抹殺しなければならないことに、深く苦悩したはずである。彼が当時に書いた様々な歌や漢詩には、その思いが深く刻まれている。決してうまい歌ではないが、そのうちの一つを紹介しておく。
「ものすごき秋のなが夜のよもすがら 夢むすびえぬ人ぞものうき」
この時の乃木の心情を、橋川文三は次のように見事に分析している。
「同志相剋の流血を合理化するいかなる理論も乃木には理解できなかった。国家への忠節(尊皇攘夷・純粋な明治維新の精神への忠節:三浦)と言えば、まさに玉木以下の人々こそ乃木薫陶の恩師であった。」
「乃木はそのような意識のもとにおいて、かれが死者ととなり、我が生者となる何らの理由も発見できなかった。軍旗事件は、彼をして初めてその矛盾解決の可能を認めしめたといえよう。かれらがその心情のために自らその死地に入ったとすれば、乃木はまた自らのシンボルのために生命を絶つべきであった。(橋川文三『乃木伝説の思想』)
 本稿は次号、この乃木将軍の自裁を、さらに知識人たちがどう読みこんでいったのかを考えていきたい(終)

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