『乃木伝説の思想』(橋川文三)から『歴史と文学』(小林秀雄)へ(中)

アメリカ人ジャーナリストの乃木将軍賛歌

乃木希典に深い敬意の念を抱き、その人格を称賛したのは、アメリカの新聞記者、スタンレー・ウォシュバンである。彼は従軍記者として、日露戦争時司令部で指揮を執りつつ苦悩する乃木将軍の姿を間近に見ていた。その思い出をまとめ上げたのが、1913年に出版された『乃木大将と日本人』(講談社学芸文庫)である。
まず、ウォシュバンは、この戦場で一人の偉大な人格に出会ったことを、次のように述べる。
「私は直接乃木大将を見、かつ乃木大将を知るに及んで、その人格と天稟とに痛く感激させられたものである。将軍ほどの徹底的理想主義者は、かつて知らなかったのである。」
「将軍の一大軍人たることは、全世界に知らぬ人はない。しかしその私的、個人的方面、その純真掬すべきほどの温情、婦女子の柔和にも類うべき、そのなつかしい慈愛に至っては、英米人の知るところでなく、また全く理解し得ないことと思う。」
「乃木大将の人格を知らんとするには、剛勇鉄のごとき軍人としての大将と、温厚親切なる友人としての大将と、この二つの方面から観察する必要がある。私たち数名のものは、幸いにこの二つの方面から将軍を窺うことができた。たとい私が旅順・満洲の状況について言及するとしても、それは旅順・満洲のためではない。旅順・満洲あるがために、将軍を知ることができたからである。」(『乃木大将と日本人』)
 ここでウォシュバンは、既にジャーナリストとしての自分を捨てている。彼が戦場の乃木将軍に見たものは、彼ら近代欧米人からは失われつつあった姿だった。あえて言えば、そこに彼は国益や個人の名誉を越えた、何らかの絶対的価値に献身し、同時に限りない情愛を敵味方の兵士に捧げる、ある種の「聖者」の姿を底に見たのである。そして、その感動が彼を、ジャーナリストから文学者に変えた。そして、以下のように乃木将軍と、当時の日本軍の姿を伝えていく。
「乃木大将にとっては、旅順戦はいわば一傷痕であった。奉天戦も一つの古傷であったのだ。戦役において、我々は将軍の性格発展の跡をたどることができるし、またかの惨酷な鮮血時代、犠牲時代の悲劇において、明治天皇崩御に際し、将軍を駆ってあのような挙に出でしめた、その精神の動きを了解し得るのである。」(『乃木大将と日本人』)
 旅順や奉天における日本軍兵士の姿は、明治から大正にかけての時代を満州やロシアで情報将校として生きた石光真清の回顧録『城下の人四部作』にも、いくつもの証言が残されている。真清は、かって同郷の友人だったが、ある行き違いから絶交した本郷という兵士と戦場で再会する。二人は十年の義絶を説いて語り合い、誤解を解きあった後、農民出身の本郷はしみじみと語る。
「いい時代だった。俺は明日死んでも悔いることはない。ご維新前だったら、俺は片田舎の貧乏百姓で一生暮らさなければならなかっただろう。貴様は武士の子だ、俺は百姓の子だ、貴様などと言ったらお手打ちになる。この時代のためなら俺は慶んで死ぬ。」(石光真清)
 明治という時代、それが生み出した近代国家の光の面が、この言葉にははっきりと表れている。近代国家はそれまでの封建制度を破壊し、「国民国家」として国民を統一国家に統合する。そのために絶対必要なものとされ導入されたのが、全国共通の国民教育、徴兵制度、全国共通の法律に基づく税徴収制度や裁判制度の確立だった。
これは決して素直に受け入れられたことではない。明治初期の農民一揆はこれらの近代改革に抗議するものが殆どである。しかし、この制度が定着し、形式的なものであれ「四民平等」の世の中が実現していく中、こうしてかっての士族の息子と農民の息子は、ともに分け隔てのない戦友となりえたのだ。「この時代のためなら俺は慶んで死ぬ」と言い切れる精神を持った兵士たちの死を恐れぬ勇戦こそが、日露戦争における日本軍の勝利をもたらしたのである。
 そして、前回述べたように、乃木将軍自身もまた、この明治という時代に殉じる覚悟を持った、いや、そのように運命づけられていた将軍だった。乃木将軍は、現代で言われるような意味での政治思想や歴史観を持っていた人ではなかっただろう。しかし、彼は明治維新という、まぎれもないある種の「革命」に参加し、その結果確立した維新政府を軍人として守り抜く立場に身を置くという、歴史の最前線に立っていた。彼の親族を含む、思想的には乃木将軍に近い旧武士勢力が、維新政府への反逆者として立ちあがった時、将軍は徹底して弾圧することを迷わず選択した。そうである以上、乃木将軍は日露戦争の場においても、いかに配下の兵士たち、いや、敵国ロシア軍兵士に対してすら命を惜しむ人格を抱いていたとはいえ、過酷な犠牲を続出させる旅順突撃戦を繰り返すしかなかったのである。

近代の犠牲となる人々への涙

再びウォシュバンの著書に戻ろう。
「一兵卒の戦死さえ、乃木大将は肉親の不幸として感ずる人である。ましてこの旅順攻撃戦によって与えられた苦痛にいたっては、比ぶべきものもなかった。」
「かの第一回総攻撃のあった八月の一週間、乃木大将は常に前線に出ていた。こなたの丘に立ったかと思えば、また彼方の山に移る。そして部下の師団・旅団・連隊が、露軍の砲火を浴びて(中略)相次いで消えてゆくのを視守った。しかもなお将軍は、毎日彼らに頑張らせて止まなかった。」
「そして過去一千年の歴史にも、絶えて比類を見出せない、堅忍不抜のストイック的精神を発揮して、飽くことを知らぬ戦争の巨腹に充たしむるに、あたら日本男児の鮮血をもってしたのである。」(乃木と日本人)
『坂の上の雲』に典型的な、乃木将軍を、善良だがまったくの愚将であるかのようにみなすのは、現在の様々な戦史研究から見てもはや成立しないだろうが、旅順攻略戦の是非については、現在までも様々な説がある。しかし、ウォシュバンはそのような戦術評価論を、この戦場における二次的、三次的なものとしか見ていない。
彼にとってこの旅順攻防戦の本質は、まさに日本軍が、古代スパルタやローマの市民兵のように、自らの国家共同体の勝利のために団結して死を恐れず戦い、また彼らを指揮する将軍も、その死を共同体に捧げるものとして犠牲を惜しまず命ずる、古代の神話的世界だったのだ。おそらくこれはフランス革命後の市民軍が、訓練を積んだ諸王国軍を打ち破って祖国を防衛し、その後ナポレオンに率いられて、ヨーロッパ各地を変遷した時の姿とも決して遠く隔たってはいない。革命と国家共同体の確立は、確かにその初期においてはこのような効用をもたらすのである。
そして、乃木将軍が同時に、いかに彼ら兵士の死を悼んでいたかをもウォシュバンは記している。
「旅順が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽っていると、いつの間にか閣下の姿が見えない。もう退席してしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか」(乃木と日本人)
 ここでの乃木将軍の涙は、もちろん旅順をめぐる攻防戦で倒れた日露両軍の兵士たちに向けられたものである。しかし、ここで乃木将軍がロシアの兵士に対しても涙を流したのは、単にその精神の広さや情愛だけではあるまい。日本とロシアの国家間戦争において、お互いの兵士はそれぞれの国家体制を守るために闘わねばならず、そしてまた勝たねばならない。そのためには如何なる犠牲を覚悟した作戦も、将軍は己の兵士に命じなければならず、兵士はそれに従って命を捧げねばならない。その引き受けねばならぬ過酷な運命において、日本とロシアの軍人の間に何の違いもないことを、乃木は理論ではなくともこれまでの体験でで知り尽くしていたのだ。著名なステッセル将軍との会見も、このような視点で考えるべきものだろう。
 ウォシュバンは乃木将軍の自決に対しても、全く自然なこととして受け止めていた。
「将軍は一切を甘受して何らの不平もない。生を重んずるのはただ、忠義と尊敬とを集中するその対象に奉仕せんがためであった。乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。将軍既に自己の事業の終れるを感じ、疾くにも平安静寂の境に入るべきであったとして、その機会を熱望していたのである。」
「かくのごとき理想を抱いたかくのごとき人物が、今日のこの時代に現存したことは、吾人西洋の生活に育てられたものの愕かずにはいられないことである。偉大な人傑の生れ出て、位人臣を極めたり、大望を達したりすることはある。しかしその影には、何処となく自己中心思想の潜在することが多い。偉大なる愛国者の興起することもある。しかし満身ただ忠誠、個人的存在を没却して、純理想主義に立脚する点において、近世誰あってこの日本の古武士乃木大将に匹敵することができよう。古代ギリシアの勃興期においては、こうした人傑の輩出したこともある。しかしそれは全く環境を異にした時代の人々であったのだ。」(乃木と日本人)
 おそらく、乃木がこの文章を読めば喜んだのではないかと思う。ウォシュバンにとって乃木は何よりも「純理想主義」の人、近代的な価値観や、また個人の名誉心と無縁な無垢な人として表れていた。ある意味、ここに乃木将軍の悲劇があったことを、ウオシュバーンは無意識のうちに見抜いていたといえるだろう。

時代との一体感が失われたとき

乃木将軍は時代を拒絶した

 ウォシュバンも言うように、西欧においても「偉大な人傑の生れ出て、位人臣を極めたり、大望を達したりする」ことはいくらでもある。いや、それはこの日露戦争においてすら、乃木将軍以外にも著名な名将は、東郷平八郎であれ児玉源太郎であれ存在した。しかし、ウォシュバンは彼等や、伊藤博文、大隈重信、山県有朋といった政治家たちに、「偉大な人傑」を認めその功績は評価しても、乃木に対してのような高潔さはおそらく感じ取れなかっただろう。それは乃木将軍は、この近代国家建設の過程で犠牲になっていく人々への視点を常に自らに抱きつづけてきたからである。
 日露戦争の日本の勝利は、大日本帝国の一定の近代化の成功の証であった。それと同時に、新たな社会矛盾が生まれると共に、維新も戊辰戦争も、いや、士族反乱も歴史となっていく。それは致し方ない歴史の宿命であったが、同時に、乃木将軍のような意識はすでに時代から遠ざかっていくものになりつつあった。近代化に対する反発は、一方では民主主義や社会主義などの政治思想、またオカルトや新興宗教の形で表れていく。明治文学自体が、近代的価値観との対峙と思想的苦闘から生まれたことは言うまでもあるまい。
 ウォシュバンの言う、乃木将軍にとって「生を重んずるのはただ、忠義と尊敬とを集中するその対象に奉仕せんがため」であったのは、あくまで明治という時代、明治天皇を頂く維新体制に対してのみであった。「天皇は日本帝国の権化であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。」この時代への一体感は、大正の時代に生きのびられる性質のものではなかったのである。それはあくまで、自らも、そして同志たちも、また兵士たちも命を捧げた明治という時代だけに成立するものであった。
 その意味で、乃木将軍が遺言で、養子をとる意志は全くなく乃木家は断絶すること、自分の遺体は医学校に献体すること、家も処分することを強調していたのは、ある意味、明治という時代とともに滅びていく決意を象徴するものだった。
「伯爵乃木家ハ静子生存中ハ名義可有之候得共呉々も断絶ノ目的ヲ遂ケ候儀度大切ナリ」(乃木伯爵家は、妻静子が存命のうちは名義は残るけれども、くれぐれも断絶することこそが重要である)この遺書の最期の言葉には、これ以後の、個人主義と名誉の時代、立身出世が人生の成功とされ、近代的価値観に反するものがすべて疎ましく思われる時代にはもはや生きてゐたくないという、時代への拒絶感をも感じられないだろうか。
 この乃木の心を、大東亜戦争の時代に再び再発見する知識人が現れる。それが小林秀雄であった(続く)。


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