書評『人間の条件1942』劉震雲著(集広舎) 飢餓難民を救った日本軍


一九四二年、河南を襲った飢餓
三百万の餓死と、ほぼ同数の飢餓難民の出現

 本書は、一九九三年に出版された中国の作家劉雲のルポルタージュ文学『人間の条件1942』と、同作品を二〇一二年に映画化した際のシナリオで構成されている。本書は原作とシナリオを同時収録することで、期せずして、一九四二年から翌四三年に書けて河南地方を襲った飢餓の悲劇と、その中で人間がいかに生き抜こうとしたか、当時の国民党政府も飢餓と難民の出現に対し何の対策も当初施さなかったこと、その中で現実に立ち向かおうとした様々な人々の苦悩を含めて、歴史を重層的に描き出すことに成功した。

一九四二年の餓死の原因には干ばつや蝗害だった。人々は食料を失い、木の皮や、はたまた毒草のようなものまで、一時の飢えをしのぐために食べ、そして三百万が餓死し、ほぼ同数の人びとが、食料を求めて難民化した。しかし蒋介石は事態を知っていたにもかかわらず、アメリカ人記者ホワイトの直訴と、彼の記事が『タイム』に掲載されるまでは手を打たなかった。蒋介石にとって、国際情勢や外交は重要であっても、民衆の餓死はさしたる問題ではなかった。しかし、これは単に蒋介石ひとりではない。本書冒頭で著者はすでに指摘している。一九四二年、三百万が餓死したとして、それが何だったのか。

「三百万人の死と時を同じくして、こんなことが起きていたのだ。宋美齢の訪米、ガンディ―の断食、スターリングラードの大血戦、チャーチルの風邪、これらの事件のどれもが、一九四二年の世界情勢においては、この三百万人の命より重要だった。」(本書七頁)
著者が蒋介石をはじめ、この難民を見捨てた政治家を直接的に非難しないのは、権力者であれ、「革命指導者」であれ、権力の立場から民衆を支配、もしくは指導する対象としか見ない「体制」は、常に民衆の生死よりも「現実政治」「国際政治」の視点でしか物事を考えようとしないという残酷な現実を、中国の現代史から学び取っているからに他ならない。これは蒋介石という一個人の問題ではなく、政治権力の民衆の本質的な関係性なのだ。しかし、その上で、著者は自らが文学者としてどちらの立場に立つかをはっきりと宣言する。

「だが、これらの世界の軸の中心から遠くはなれて、ぼくは、垢にまみれた餓死者が至る所にころがり、果てしなく赤土がつづく河南省の被災地区に戻らなければならないのだ。これは、他でもない、右往左往したあげく落ちぶれ果てた被災民の末裔である、僕の運命だったとしか説明しようがない」(九頁)忘れられた死者の側に立つ、この姿勢は、現代中国の代表的な価値観、拝金主義とも覇権主義とも全く異なる立場に一人の文学者として立ち続けるという著者の思想的宣言である。

しかし、こう書いたからといって著者は決して民衆そのものを美化はしない。著者が当時の体験を聴きに尋ねた時、実際に飢餓の苦しみを体験した人々ほど、逆に自らの狭い経験や価値観でしかこの悲劇を語ることができない。夜眠りに就くときも、朝目覚めた時も、まず食事のこと、一家の無事のことしか考えられないほど追いつめられた精神は、むしろ疲弊し、狭い世界に自閉してしまうことの方がはるかに多いのだ。だからこそ作者は慨嘆する。当時を知るはずの人たちの語る内容は「どれもまとまりがなく、不完全で、不正確」「五〇年を経て、多くの当事者の記憶は錯乱し、さらに、無意識のうちに興味の赴くまま話に尾ひれがついたり、はしょられたりして、ごちゃまぜになってしまった」(二二頁)。

もちろん、彼らが意識せずして語っている言葉の中には、まさに中国現代史の貴重な証言というべきものが浮かび上がる時がある。飢餓難民として逃れ、捉えられて当時の国民党の兵隊となり、後に脱走した元共産党支部書記は、国民党の軍隊から逃亡したことを今もひどく後悔している。彼らの部隊は後に台湾に渡ることができたからだ。同郷でほぼ同じ運命をたどった知人は台湾に渡り、いまは金持ちになって故郷に錦を飾った。共産党支部書記を何期も務めたところで、「台湾同胞」ひとりの財産にも名声にもかなわないと後悔しこの老人は悔しがる。しかし彼は、戦中の飢餓に関しては、ほとんど語ることを拒否する。彼にとって、飢餓の時代は語りたくもない過去なのだ。

そして、この飢餓の時代について、最も真実を伝えている言葉が一つあった。一人の老婆は語る。「飢え死にかい?そんな年はたくさんありすぎるんでね。いったいどの年のことをいっているんだい?」 戦争中のみならず、戦後中国における大躍進時代の数千万の餓死、その後の文化大革命、そして、現在も改革開放政策の影での、世界でもまれな格差社会を示唆する言葉である。この老婆の一言はまさに中国現代史の本質をとらえている。

飢餓を救った日本軍の河南侵攻
中国民衆は自発的に日本軍に協力した

この飢餓を最初に世界に訴えたのは、当時の新聞『大公報』の記事(勇気ある中国人記者が、単なる飢餓の状況報道だけではなく、政府の無策や重税を鋭く批判した。六九頁)そしてアメリカのジャーナリストの『TIME』への寄稿であり、現場で必死の救援を繰り広げていた宣教師たちだった。当時は大戦中であるにもかかわらず、カトリックもプロテスタントも、国境も宗派も超えて教会が炊き出しや、飢餓難民の保護に乗り出した。教会や施設に保護する理由が、生命を助けること以上に「せめて彼らを人間らしく死なせてやりたかった」というものだったことは、深い感動を呼ぶものがある。国際的な批判を恐れて蒋介石は支援を始めるが、それは形ばかりのもので、しかも支援を横領する地方幹部が続出した。著者は戯画的に描いているが、一粒の丸薬を飲めば飢餓から逃れられるとインチキ薬を売る商人が現れたというエピソードは、どんな飢餓難民の残酷なエピソード以上に目を背けたくなる、人間の本質的な醜さが表れている。 

最終的に飢餓を救ったのは、海外からの支援物資と、なんと河南の被災地区に進駐してきた日本軍の支給した軍糧食料だった。この支援について、翻訳者である劉燕子氏は、自らのブログ記事などで詳しく分析している。それによれば、日本軍はこの河南作戦においては、軍糧に余裕があったわけではなかった。当時の軍記録を読む限り、むしろ食料は不足していた。しかし日本軍は、自軍の補給をある程度は遅らせ、最前線の兵隊に忍耐させても、被災民への配給を行ったのである。この日本軍に対し、河南民衆自身も、日本愚を明確に支持した。このことを著者は、本書の中でも最も激烈な口調で語っている。一九四二年の干ばつに続き、翌年の蝗害という更なる悲惨な災害が河南を襲ったとき、助けてくれたのは日本軍だった。「われわれは皇軍の軍量を食べて命をとりとめ、元気を取りもどした。」(一〇七頁)しかし、国民党政府は何もしてくれなかったし、共産党軍も同様だった。

「われわれは、惨状の中で生き延びるために、乳を与えてくれる者は誰でも母親とみなしたのである。日本の軍糧を食べ、国を売り、漢奸(売国奴)となったのである。しかし、こんな国に売ってはいけないものなどあるだろうか?(中略)あなたたちは、日本軍との闘いのために、共産党との闘いのために、連合国のために、東南アジアでの戦争のために、情け容赦なく穀物税を取り立てわれわれを苦しめた。だから、われわれは向きを変えて、日本軍を支持し、侵略者が我々を侵略するのを支持したのだ。当時、わが故郷の農民、親戚や友人の中で、日本軍のために道案内をしたり、日本軍側の前線で後方支援したり、担架をかついだり、さらには軍隊に入って、日本軍が中国軍を武装解除するのを助けたりした者の数は、計り知れない。」(一〇八頁)

この様な中国民衆は、決してただ日本軍を支援したのではない。自らを見捨て守ろうとしない政治権力から自立し、日本軍に自発的に協力することで、彼らは専制権力の奴隷状態から脱したのである。彼らは蒋介石の国民党という軍事権力とも、毛沢東の共産という、「革命」を名乗りつつ実は民衆を更なる全体主義支配下に置こうとしていたスターリン主義権力からも自立した、自らの足で立つ民衆たらんとしたのだ。

検閲をかいくぐった見事なシナリオ

本書あとがきによれば、本書は発表当時から映画化が待望されていたが、それが実現したのは、むしろ反日・「愛国」キャンペーンの中、日中戦争を映画化することが推進された近年のことだった。そこにはもちろん様々な制約があり、特に「中国における階級の矛盾・対立ではなく、日本と中国の対立を最優先すること」「アメリカ人の救援活動を誇張しないこと、宗教の問題の尺度をよくわきまえること」などが重要な検閲条項となった。シナリオに散見する日本軍の残虐行為などは、その為のアリバイとして入れられたと思しく、少なくとも私は無視すればいい。ここでは、一切の綺麗ごとなく飢餓難民の実態が、地獄めぐりの悲喜劇のように描かれる。このシナリオが優れているのは、それが単なる悲惨を超えて、それまで権勢をふるっていた地主一家の没落課程、軽蔑していた車夫や農民との地位の逆手などが、まるで中世のカーニバルのようなある種の秩序逆転の不条理劇の様に描かれ、また、逃避行の中での「裁判」、人身売買と難民が難民を食い合うような搾取と、その果てにある人身売買などの、まさに世界の崩壊を思わせる展開の後、このすべてを終わらせるまるで黙示録の始まりの様に、日本軍が登場し爆撃が起きるシーンの映画的カタルシスは、文字だけでも充分伝わる。
 私が最も共感した登場人物は、難民となった旧地主と中国人宣教師だ。当初は特権階層だった二人は、絶望的な状況の中、逆に人間として成長していく。宗教を美化するなという検閲を逆手にとって、この映画では、現在でもしばしば起きる、宗教組織の偽善性を深くえぐっている。当初は難民に信仰を素朴に説いていた宣教師だが、やがて、この飢餓とその救援行為を、協会は単に宣教に利用しているだけではないか、自分の信仰は結局、難民に幻想すら与えることができなかったのではないかと苦悩し、最期に狂気にまで至る。
地主は財産も、一かも、最期まで守ろうとした難民途上で生まれた孫の命も、そのすべてを失うのだが、最期に偶然出会った一人の孤児を救うことに希望を見出す。この二人は、共に状況に正面から立ち向かった人間の姿として深い感動を呼ぶ。そして、前半部で紹介した老婆の言葉が、いかに効果的にこの映画の最後のナレーションとして使われているかは、ぜひ本書を直接当たられたい。
 私は知人の映画関係者に、本作を日本で是非上映できないかと尋ねた。しかし、その方が言うには、現在の中国の大作映画の多くは、余りにも配給権が高騰し、中々中堅どころの会社では取り扱えないということである。私もネットの一部で画像を見ただけなので、映画全体の批評はできないが、このような映画が公開されないことは極めて残念なことと言わざるを得ない。確かに反日的な描写があろうとも、繰り返すがそれはこの映画の本質ではない。それは、日本軍に直接協力した中国民衆を監督が描いていないのと同様、検閲を食い破るように、時にはすり抜けるように作品を作っている人たちの止む終えざる妥協と受け止めるくらいの度量を私たち自由な国に住む側は持とう。そして、本作が日本のスクリーンで観れる日が来ることを私個人は願ってやまない。北朝鮮批判ではなく、脱北者の悲劇を中心に描いた韓国映画『クロッシング』(2008)が呼び起こしたような感動を、再び私たちは得ることができるはずである。

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