『聖なるズー』 から学ぶ対等な愛の形
AV感得で性愛に関する多くの著作のある二村ヒトシさんが「すばらしい、ものすごい本だった。セックスのことや、差別、フェミニズム、対等さ、暴力や虐待の問題、宗教や哲学に関心ある人は、みなさん読まれたほうがいいと思います」とツイッターで薦められていたので(同じ文章がアマゾンのレビューにもある)、アマゾンでポチったら、「動物との性愛」「ノンフィクション賞受賞」という文字が目に入って驚いた。
ということは、この筆者が動物性愛者で、自分の経験を綴って本なの?と思いつつ、プロローグを読んだら、「私には愛がわからない」「私にはセックスがわからない」という強烈な言葉とともに、恋人から性暴力を含む身体的生産的暴力を振るわれていたことが明かされる。
人間の男への不信感から動物との交流にひかれるようになったのかと思いきや、そうではなく、自分を苦しめていた愛やセックスの正体を突き詰めたいがために、大学院で学術的に愛やセックスについて学びたいと考え、性暴力をテーマに選ぶのは自分の心を傷を広げてしまうから避け、動物性愛を選んだということだ。
プロローグを読み、筆者の「克服したい」という強い信念や、外国にまで出掛けていき、動物を愛する人たちの家に住み込み、打ち解け、話を聞き、論文にまとめることができる行動力に感服した。
これだけの力を持った人が10年近く自分を苦しめる恋人の支配から逃れられないなんて、「愛」が人をどれだけ狂わせてしまうのか、恐ろしさを感じた。
外国に住む「ズー」という動物性愛者のグループを見つけ、メンバーとメールでやり取りし、直接話を聞き、彼ら愛する動物とどんな生活をしているかを知るために、ドイツに行き、メンバーの家に居候されてもらうことになる。
それほど親しくはない外国人を自宅に住まわせるのは、国民性の違いもあるだろうが、それだけ「自分たちのことを正しく理解してもらいたい」という気持ちがあるのだろうか。
初めてズーメンバーの家に行くとき、携帯の電波が途絶え不安になる筆者の緊迫さがひしひしと伝わってきたが、一緒に暮らすうちに打ち解け、ズーがパートナー動物とどんな感情でつながり、どんな関係を築こうとしているのか聞き出せるほど良好な関係を結ぶことができる。
筆者を通して伝えられるズーの人たちの話は、対象が動物なだけで、人間同士の愛と変わりないのではないかと思った。
むしろ、自分が優位になりたいがため自分より弱いものにひかれ組したいと思ったり、「若い」「胸が大きい」「エッチな格好をしている」というエロい記号に興奮し性欲を刺激されているのを「愛」だと勘違いしている人より、もっと本質的な部分で特定の誰かを愛しているのではないか。
その鍵となるのは「パーソナリティー」という言葉だ。
キャラクターはその存在の固有の個性を表すものだが、「パーソナリティー」はその人と自分との関係性のなかで生まれるものだ。その人と自分がいると自分がどのように感じるか。
その人を好きになるのは、その人の年収とか外見の好ましさではなく、その人の内側にあるものを好きになるのであり、たまたまそれが「動物」であったという話だ。
この本を読みながら、二村ヒトシさんが『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』のなかで語っている「心の穴」のことを思い出した。
人は誰でも成長過程で親から傷つけられた「心の穴」があり、その穴をぴったり埋めてくれる人を愛するのだ。その穴は自分の足りない部分でそれを埋めてくれる要素を持った人は自分とは異なる性質、価値観を持った人なので、実際につきあうときに苦しむことが多い。
そんな話を自分自身の恋愛と重ね、まさにその通りだと思ったが、ズーたちの愛はもっと深い本質的なものに由来するのだろう。
また、「動物愛好者」、「獣姦愛好者」と「動物への性的虐待者」との違いの説明も興味深かった。
相手が好きだからセックスしたいと思うのか、セックスしたい相手を「好き」だと思っているだけなのか、そしてその行為が相手の意思を尊重せず、自分の快楽だけを求めているのか。
それは、人間同士の性愛でも当てはまり、「幼児性愛者」のほとんどは「幼児姦愛好者」なのではないだろうか?
「動物を愛す」ということがどのようにして起こり得たのか、理解することはできても、私には起こり得ないことだと思う。
しかし、ズーたちが、動物という人間より低い立場にあり支配下にある存在を、自分と同等のものとみなし、その意思を尊重しながら、パートナーとして暮らすやり方は、人間同士が、自分勝手なやり方ではなく、互いに尊重しあいながら、付き合い、関係を深めていくのに参考にすべきことがたくさんあった。
彼らは必ずしもセックスを重要視してない。
お互いの体格の違いから頻繁にセックスはできなくても、一緒にいられることで満足しているし、性的なことがなくても寄り添うことで十分な満足を得られている。
私は彼らのような愛するものを対等なパートナーとして敬い労り合いながら人生を送りたい。
その相手が与えられていることが(今は不倫もいう関係であっても)喜ばしく思える。
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