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コロナ休校中のこどもの日に考える日本の学校教育の問題点

今日はこどもの日である。

ウィキペディアによると「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日であると記されている。

それではまるで、子供に関わっているのが母親だけみたいで、どうして「両親」とか「養育者」ししなかったのかと思ってしまうが、制定された1948年には「子供の面倒は母親が見るもの」という価値観が強かったのかもしれない。

それはさておき、コロナによる長期休校が続く今日は、制定されてから1番「こどもの人格」も「こどもの幸福」も損なわれ、「母に感謝する」ことが母親の負担になっている「こどもの日」なのかもしれない。

とは言うものの、「学校に行けない」「外に遊びに出られない」「スポーツの練習や部活ができない」と悲しむ子供たちばかりではなく、「学校に行かなくてもいい」「勉強をしなくてもいい」ことを喜んでいる子供も多い。

休校がさらに続くことで、子供の教育の遅れ、自宅学習ができる環境にある子供とそうでない子供の格差を問題にする声も上がっているが、そもそも「学習の遅れ」や「格差」ってなんだろうと疑問に思う。

「遅れ」とは、文科省なと国が決めた「◯年生は◯◯まで習得する」という指導要項から遅れるということであり、「格差」は同じ学年の他の子供と習得度や学習量を比較したことである。

何かを習得する能力には子供ひとりひとりに違いがあるのに、この年齢ではここまでの学習をするべきだと「指導要項」を決めたり、他の子供と比べる方がおかしいと私は思う。

「これについて学ぶ」という目標はあっても、それを何歳までにしなければならないと定めたり、どこ子が1番よくできる、自分の子は何番目だと順番をつけなくてもいいのに、そうせざるを得ないのは「受験」という関所があるからなんだろうか。

フランスでは小学校から留年があると聞いたことがあるが、それを教えてくれたフランス人は「ちゃんと十億デキテいないのに次の学年に進むほうが子供の負担になるのでは。もう一度同じ学年で学んだほうが子供のためにいい」と言っていた。留年や飛び級が当たり前なので、クラスメイトが同じ年齢の子供ばかりではないし、落第したからといってそんなに恥ずかしくもないそうだ。

これを機に、9月入学を考えるより、もっとひとりひとりの能力に沿った学習が受けられるよう、学校教育システム考えて直してほしい。


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