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【ボルタリング✖️無愛想であること】あなたは誰も応援してくれないのに何かを達成できるだろうか。

壁を登った。

昨日はボルタリングトレーニングと、無愛想であることをコラボさせたイベントに参加した。

日頃からお世話になっている作家さんの新刊から派生したイベント。

写真を撮るのを完全に忘れたので、スクリーンショットしかないがイメージである。

ボルタリングをプレイしながら、外部の刺激に『無愛想』であれるかどうかの研修だった。ように思う。

今、周りでは『無愛想』であれるかどうかのトレーニングを積むことが1つのテーマになっている。

よく誤解を受けるが、無愛想になるとは笑わないことでもぶっきらぼうになる訳でもない。

自分の意思に純粋に向かえるどうかのスタンスのことである。

それを選択できる人でありたいよね。
っていう主張である。

今回のイベントのネタバレを軽くすると、スポーツでありながら『プレイ中の声援をしてはいけない時間』が設けられた。

ボルタリングは登っていい手が決まっている。決まっているが、壁に取り付いて見ると驚くほど周りが見えなくなる。

次の一手が何も見えなくて、パニックになるのだ。

今回のトレーニングでは声援をなくしたため、自分だけが頼りになる。

もう辞めてもいいし、
諦めて飛び降りてもいい。

誰も何も言わない。

トレーニングで出たことは、実生活にそのまま出る。というのが私の周りの共通概念である。

まだ力があるのに、登ることを諦めた。

手が痛いと嘘をついて登らない。

人が登っている姿を真剣に応援できない。

同じようなことが起こり続ける。


トレーニングとはこういう『1人じゃ見えなかった視点を公にしてもらう機会』なんだろう。

同じチームの女性は登り終わった後に、延々と涙を流していた。

ある人は登りながら泣いていた。

落ちてしまった自分が悔しくて仕方ない人もいた。


ボルタリングを経験して分かったのは、非常に自分に向いているスポーツだ。ということ。

壁をひたすら自分のペースで登り続ける。いいですねぇ。

ハマったのでもっと少人数でまた行ってみたい。

トレーニング後の懇親会で、初対面の読者さんにたくさん出会うことができた。文章もボルタリングみたいなもので、向き合っていると『俺は1人なんじゃないだろうか』と考え込んでしまう瞬間がある。

かといって色んな方の顔が見えすぎると、何も書けなくなる。

読者の方はみんな優しい人で、その存在を確認できるだけで非常に力が湧いてくる。

いつもありがとうございます。

今後はkindleで電子書籍を出す予定のため、買って頂けるとさらに喜びます。

1冊目は『嫁(仮称)シリーズ』をまとめています。確実に売れそうなところから出し始めます。はい。

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