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風味の本尊化 1

A○Bっぽい音楽が、某店で流れているのを聞くともなしに聞いていて2~3分も経たないうちに、単調さが丸見えな気がしてきてイヤになる、

という個人的な事件が、最近あった。

A○Bにとっては音楽は添え物で、例えばMV見ながらメンバーの女子たちとの半シンクロ感が醸し出せればいいんだろうな、という、勝手な感想が湧いたのと同時に、モー娘。の音楽にはあった筈の実験精神やらワクワク感的な要素のかけらも感じ取れないことに、そら恐しさを感じた。

いわば風味づけとしての音楽。
風味の本尊化。

そして、そんな単調な音楽にでも「ノレ」てしまう聞き手の、いわば、「動物化」。

もっとも、A○Bにおいては、CDはそもそも握手会などへの参入手段なだけ、本尊はあくまで各「メンバー」そのもので、音楽性がどうのとかいうことは、先刻承知のすけ!なのやも知れぬ。

しからばA○Bに関係しうるのは「風味の本尊化」ではなく「動物化」だ、となろうが、「動物化」は問題が大き過ぎ、ひと思いに論じ切ることなど到底できないので、捨ておく。

「風味の本尊化」なるもの、他にどこで起こっているかというと、実は、ヒトの行う認知の枠組みに関わり、多様な場面で、いろんな起こり方をしているように、私には思える。

例えば、noteである方が書かれていた、地毛が茶色がかっている生徒が、「茶髪禁止」の校則の学校に、黒毛染めを求められた、という件。

「茶髪でない」状態の実現ゆえに「染める行為」を、学校が、むしろ強いる事態が起こったことになる。

これ、「風味の本尊化」じゃないんだろうか?
ー「染める行為」の禁止と、(髪色が黒でない)「状態の抑止」との取り違い。

さらに言えば、「なぜ」染髪が禁止なのかの本質的な理由が突き詰められずして、その「校則」が運用されていたんじゃないのだろうか?

思い付く最も合理的な理由は、
「若年からの染髪剤使用による皮膚or 身体への、期せざるテールリスク現出の事前回避」
だと思う。

仮に、その「校則」がここまで煎じた上で共有されておったならば、地毛が茶色がかっている生徒に黒毛染めを要求するなどもっての他「+本末転倒」との理は、容易に解されたのではと、想像する。

逆に、「見映え」のみを問題にする生徒なり保護者なりを、先生方も、確信をもって説得できようと思う。

そうではなかった、ということは、
そこにただ「校則」があって、
「茶髪はまずいだろう」的な「気分」だけが漫然とあって、
それがルールとされている「本質的な意義・妥当性」を何ら省みることなく、
その「校則」は、運用されていたのだと、
推測せざるを得ない。
(→だから、「校門圧死事件」とか、起こるんでっせ!)

風味の本尊化、である。

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