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風味の本尊化2

(1の補論)
整理整頓を徹底すると生産性が上がるとされている。よって、「見映え」の統一にも、教育上のまたは教育に及ぶ、プラスの意義はあり得る。

しかし、だからといって、地毛が黒でない生徒に染髪を求めることまでが正当化される訳ではない。
(何を隠そう、この私も、髪の毛、純粋黒色ではないのである。)

他の例に移る。

「地名の世界地図」(文春新書)に、こんな話が出てくる。
「アイヌ語の地名は、自然な状態が簡潔に表現されていたにもかかわらず、文字表記がなかったために、日本人が勝手に漢字をあてて複雑にしてしまった。(略)さらに、あてられた漢字に影響されてその地名そのものが変化した場合もあった。(略)」

漢字(風味)の、本尊化。

「何が悪い」と思われる向きもいらっしゃいましょう。が、「地名そのものが変化」して、「自然な状態」が判らなくなってしまう、というのは、やっぱり損失なんじゃなかろうか。

防災のヒントが消えてしまった、かもしれないのだ。(→知られていない価値の喪失:環境経済学とかの教科書に出てきそうな話!)

肌の色(風味)と人種(DNAの共通性が高い人の集団)の、取り違え。

人種が「本尊」か?
という根本的な疑問がありつつも、これもよくある。むしろ、「あるある」。

前出「地名の世界地図」によれば、エジプト(←「アイギュプトス」) もエチオピアも、語源は「黒い人」なのだそうで、太古の昔から、肌の色は、「我ら」と「あいつら」とを区別する、大指標にされてきた。

何かヒントが要りそうな気がするが、今日のサイエンスは、ズバリ、答えを出してくれているらしい。

NHKの何かの番組だったと思うが、「肌の色の濃さは、紫外線の強さと、きれいに対応している」というのである。

「反証」もある。
「インド・ヨーロッパ語族」という言葉がある。
→ 肌の色は、違いますね!

究極はDNA分析がはっきりさせてくれる話だろうが、ざっくり言えば、「人種」というのは、「ゲルマン民族大移動」における、「○○族」やら「⬜⬜人」やらに相当する類の、人間集団のことではないのだろうか。

ということは、
「白色人種」「黄色人種」「黒色人種」という言い方は、そもそもの概念自体が、
「間違い!」
だったかもしれないのである。
(あるいは、「人種」なる語の定義が、そもそもユルいのか・・・。)

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