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ランドセルの重みはカリキュラムの重み

ゆとりからの超反動が「試す」子どもの未来

東京の小学生は午後3時半下校という。恵まれていると思う。当地の小学生、7時登校・17時下校をざらに見る。大人並みである。(しかも土曜登校あり。) 3~4年前からそうである。小学生の学業拘束時間が大人並みであることに世の大人が全く懸念を抱いている気配がないことを、ずっと不思議に思っていた。これはどう考えても、子どもの正常な発育の権利の侵害であると思う。

今年、ランドセルの重さの甚だしいことが問題になった。学校に置いて帰ってよい、というのがいまの「策」なのだろうが、これはいかんせん、弥縫策に過ぎないのではないだろうか。なぜそこまで重くなるか?「カリキュラムが重いから」以外にない。それだけのカリキュラムが要るのか?が、問われるべき問題ではないだろうか。

そしてまた、大人の生活実感に照らしても露わな、祝日の多さ。

これが「学校にランドセルを置いて帰」れば済む問題でないのは、「AI読み」とも関わる話だからだ。

(AIがするように、問題文などをなぞり読み(=「AI読み」)する子どもが増えているとのこと。理由は、「忙しいから」らしい。)

40日あった夏休みを10日繰り上げて授業時間を捻出する小学校が続出している。

ますます短くなる平日にカリキュラムをぎゅうぎゅうに詰め込んだ挙げ句、子ども同士の接触機会は断ち切り、「AI読み」が誘発されてしまうのでは、一体全体何のための「義務」教育なのか。との懸念を抱いてしまう。AIに淘汰「されない」知性・情操を育むための教育の筈、と思う。AIに「淘汰される」子どもを送り出す、のでは、無意味に過ぎる。

ようやく、小学生のカリキュラム過重問題が注目されるに至ったのは小さな小さな小さな、慶賀すべき一歩ではある。

しかし、AI時代に小学生が身につけるべき学業内容の精選と、祝日の整理見直しという、巨大な壁が、その背後にはある(全く手付かずである)と、私は思う。(いずれも、日本の将来を死活的に左右する、喫緊の課題と考えている。)

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