「健康」をつくる、みる、こわす ―カオス*ラウンジ新芸術校「健康な街」展評

 健康とはなにか?
 ハンス・ゲオルグ・ガダマーは『健康の神秘』の中で、健康とは「病気ではない」という否定形でおぼろげな輪郭を指し示すことしかできない一種の神秘であることを指摘した。この指摘において、健康は対象化しうるような実存の形をとってはいない。健康とはあくまでも状態である。我々は外的/内的を問わず様々なストレスにさらされ、それに応答し、揺れ動きながら恒常性を保っている。その振幅が一定のレンジにおさまった状態のことを、ガダマーは健康と呼ぶ。
 では、健康な街とはなにか?
 1986年のオタワ憲章以来、いやもっと以前から、公共政策の一つの焦点はHealth promotion、すなわち「健康づくり」と「健康な街づくり」にあてられてきた。「健康な街」の「健康」がなにを指すかは様々なレベルで理解できるが、少なくともここには街を人体のように理解するアナロジーが見てとれる。この画期的なアナロジーは、しかし、逆に「街」が持っている構造物としての側面を、人体に折り返すようにも機能してきただろう。結果として健康は状態ではなく、創造と管理の可能な対象物としてみなされるようになってきた。
 ガダマーの指摘に立ち返るとき、我々は健康を「つくる」という目線が孕む傲慢さと暴力性に気づき、はたと立ち止まる。

 カオス*ラウンジ新芸術校の受講生によるグループ展「健康な街」は、そういうことを考えるための場所だった。

 健康と対峙する我々の暴力性を最も端的に表現したのは、下山の「健康意識」である。食品添加物を粘土のようにこねくり回したオブジェと、添加物が多く使われやすい食品としてのソーセージとパンを持て余すビデオ展示を通じて、下山は2つのレベルにおいて暴力性を指摘する。ひとつは、添加物が本当にいいのか、わるいのか、多くの市民にとってはよくわからないまま、我々は時にそれに晒され、時にそれを批判/擁護する不毛な議論に直面する、という、社会的状況の暴力性である。そしてもうひとつが、対象をこねくり回して展示する、美術制作という営み自体が内包する暴力性である。
 本展および作品のコンセプトに照らすならば、選択すべき素材は添加物ではなく、健康食品やサプリメントの類ではなかったか、という印象ではあるが、結果として添加物が選択されたことの深層には、健康を「つくる」ことへの反抗が見て取れる。
 この反抗という点で際立っていたのは、有地の「スーパー・プライベート」かもしれない。ループし繰り返される日常とは、所謂健康で健全な日常である。作者自身のステートメントからは、この日常とは別のレイヤーに存在する「墜落事故が起きた街」を日常の中にたちあがらせる、という意図が見て取れる。しかしながら、ループの中心にある石を取り除くことによって、線路が崩落し、電車が衝突して停止する。ここでループが別のレイヤーへと移行するのではなく、ただ単に断ち切られる、という表現のありかたは、結果として本人の意図しない意味を孕む。健康で健全な日常の連続を事件をもって断ち切る、という営みは、素直に解釈すれば自殺のことである。したがって我々は、厳密には記念碑ではなくそれ自体墓標のようなものとして本作と対峙せねばならない。
 健全・健康を強いられる身体が、それにあらがう術として自殺的な手法を選ぶ、というのは、下山の手法と同様に理解できる「健康」への反抗であるが、極めて古典的でもある。惜しむらくは以上2名の反抗の様式が、見る者の「健康」を揺るがすほどには開かれていなかったのではないか、つまり、見る者がそれを自分事としてとらえかえす仕掛けを欠いているのではないか、という点である。ごくごくプライベートな手つきで行われるこの反抗は、まさに「健康な街」から容易にウォッシュアウトされてしまうような、あまりにささやかな毒素である。
 この点で―おそらくは本人たちの全く意図せぬかたちで―2人の作品は「デトックスで流れ落ちた毒素もここにはある。未成熟を許容できない私たちの住む街は、この街を許さないだろう」というステートメントの一文を体現しているのだが、本展に吹き溜まった毒素が逆に「健康な街」に牙をむく、という具合でなければ、それだけの強度を有していなければ、その営みは単に手の込んだ自己承認にすぎないように思われる(ただしこの価値判断は、たとえばデモ行進に意味などないのではないか、という批判と同様の枠組みをとっており、当然ながら議論の余地を孕んでもいる)。

 一方で、強いられる「健康」によって引き裂かれる身体をもっとも素朴に表現したのは、五十嵐による「人を尊敬するための装置」だろう。すでに時代の遺物となりつつあるシャーカステンに照らされて、手をつなぎながら離れていく肉体と骨格の様相は、まるでこれまで芸術が繰り返し描いてきた男女の別れのようであり、つまりは社会的規範によって引き裂かれるロミオとジュリエットのようである。「健康」か否かを透かし見るX線のまなざしに晒され、我々の身体は純粋な肉体と、科学的なレイヤーに設定された概念としての身体に分裂するのかもしれない。
 ところで、実は本作には方法論的な倒錯が存在する。レントゲンとは本来、透かし見た身体をネガに反転して評価する診断的手法である。一方で本作は、フィルムの上にインクをたらし、描き出した身体をそのままバックライトで照らす、という具合で、これはネガではなくてポジである。ここには科学的な脱色の精神と、芸術的的な彩色の精神の対比が見てとれる。X線の透過性のみをパラメータにして肉体を平面に焼き付けることと、何もないところにあたかもX線によって描き出されたかのような身体を新しく描くことは、実は全く逆の作業である。科学の手つきが身体の解体であるとしたなら、これに引き裂かれつつ抗う五十嵐の手つきは身体の再構成に他ならない。一見科学のレトリックに見える手法をとりながらも鮮やかにその価値を反転する本作は、「健康」からの単なる忌避ではなく、「健康」と科学を受け止めつつ嘲笑う、といったすがすがしさがある。

 こうした身体の再構成、というか、編集可能性を、直接的に問うたのが小林の「テンポラリ_ファイル」であり、長谷川の「誰が見て誰が聞くのか-服の死に方第三項」であった。
 小林の「宇宙の外側から何かの生命体に観察され続けている」というステートメントで言及されている超越者のまなざし、この第三者が下す審級に「健康」を重ねてしまうのは自然なことのように思われる。我々の生活と身体の輪郭を捉えるそのまなざしは、X線とよく似ている。小林はこれに対して「この時代のズレまくりのレポートを作成し、いくつかのファイルにわけて、宇宙の外側の観察者に提出する」ことによって抵抗するのだが、写真に写った図像を塩水(海水)、土、火によって変容させるという作品の手法は、やはり先の五十嵐と同じく、ウソの図像をまなざす者に突き付けるという試みである。
 そのウソが自然の作用の偶然によって、例えば海水中に含まれるプランクトンといった、我々には制御しがたい要素によってつくられる、という点も面白く、これは冒頭の「健康」や身体という本来自然的である存在を、制御可能なものと理解する近現代へのアイロニーなのかもしれない(ただし、作品がもつこうした意味は、あくまでも小林本人に話を聞いて理解できたことで、本作と対峙することのみによって想像できたことではなかった、という点を付記しておかねばならない)。
 我々の身体の輪郭は、ただ暴力的に外側から観察され、第三者の価値基準でもって焼き付けられるのではない。それは我々自身の意図によって、あるいは個人の意図や社会的規範をはるかに超えた自然の力で思いがけず縁取られているのであるし、我々は我々で日々その輪郭をターンオーバーして、新たな皮膚を内側から押し出しているのである。そして、ここでいう輪郭のターンオーバーとは、まさに長谷川が「誰が見て誰が聞くのか」で扱ったファッションのことでもある。
 突然降りだした雨という外的ストレスへの応答として、とっさに選択されたビニールシートのレインコート。雨がやんで、必要がなくなったらそれを脱ぐ。脱ぎ捨てたレインコートに絵をかいて展示した本作は、我々の恒常性がいかにして維持されているかを考えさせる。
 寒くなればコートを買い、暑くなればTシャツを買う、その選択に嗜好性はあるが、必然性はない。我々は偶然の結果として選択されたものを、ときにちぐはぐに組み合わせながら、健全な日常のループを維持している。これとまったく同様の理屈をもって、我々の身体は水をあまり飲めなかった日には濃縮尿を出し、たくさん飲んでしまった日には希釈尿を出す。たまたまアルコールを飲んで希釈尿が出すぎたときには、口渇中枢を刺激し飲水を促す。たまたま塩辛いものを食べた日は、尿中のナトリウム排泄が亢進する。
 このストレス応答の様式美こそが恒常性であり、それが破綻せずに機能し続けることが本来の意味での健康である。
健康が維持される過程で脱ぎ捨てられた身体の輪郭を、絵画のようにして見直すというこの試みを通じて、我々は気づかぬ間に縁どられてきた自らの身体と健康の輪郭を目の当たりにする。本展で最もポジティブに、身体と健康のあり方について思考していたのは長谷川の作品であっただろう。

 最後に、この街自体が健康であるか? という問いを立てなければならない…のだが、これは要するにキュレーションの問題であるし、人体とのアナロジーでいえばそこに訪れた外的ストレス=観客をどのように迎え入れるか、というユーザー体験の問題なので、もう少し詳しい人に任せておくことにしようと思います。

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