アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(3/12)

(3)「食べる」で読み解く國分功一郎

さて、ここに『ハーモニー』より少し遅れて、御冷ミァハと同じ道を歩んでいた人がいます。國分功一郎です。

私の見立てが正しければ、國分はミァハとおなじ問題系を扱い、おなじように壁に行き当たって転回をした思想家です。ただし、その行き着いた先はミァハとは違っていました。

2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』(以下『暇倫』)は、國分いわく「よく噛んで食べる」「味わって食べる」ことについて書かれた本です。

定住以降の人類は、遊牧のように新しい刺激を受けつづけることができないがゆえに、宿命的な問題として「退屈」を抱えています。
この問題を解決するためには、必要十分を超えた余剰の営みをもつこと、そしてあらゆる営みにおいて「きちんとモノを享受し、楽しむ」ことが必要だ、というのが『暇倫』のたどり着く結論です。よく噛んで、ゆっくり味わって、食べていることの享楽を感じながら食べることで、我々は退屈を免れることができるというわけです。

しかしそれから6年後、2017年に出版された『中動態の世界』(以下『中動態』)では、いかに「味わって食べる」かという方法の追求よりもむしろ、どのようにして「食べる」に至るのか、という行為生成の過程に焦点が当たっています。

あらゆる行為にはその端緒となる意志が存在する、というのが、従来の西洋哲学的な理解です。ここには自ら意志をもって能動的に「する」か、意志をもった他者から受動的に「される」かしかありません。
しかし、この意志というアイデアの成立過程で能動態/受動態の影に抑圧されてきた「中動態」を掘り起こすとき、我々は結果として自ら行為していながらも、その過程に様々な要因が外在するようにも感じている自分自身を発見します。意志とは、その結果として選びとられた行為の責任を帰属させるために、事後的に想定されるにすぎないというのです。

我々がなにかを「食べる」とき、あるいはなにをどのように「食べる」かを選ぶとき、それが自分の強い意志においてのみ選択され為されたのだ、とはとてもいいがたい局面があります。
そう、たとえば仕事が終わった夜遅い帰り道、我々の「腹減った」という内的な衝動は、まだ煌々と灯りのついているラーメン屋という外的な刺激と結びついて、初めて「ラーメン食べようか」という具体的な行為の形をとります。のみならず、そのとき我々の脳裏を「健康」の文字がよぎれば「うーん、やっぱりとなりの定食屋にしようか」とあっさり変わってしまうことだってあります。

中動態の世界で「食べる」を分解すると、実はこんなにも複雑です。
したがって、私が結果としてラーメンを食べたとしても、それは私が初めからラーメンを食べるという強固な意志をもっていたことを必ずしも意味しません。「食べる」ことは個体に内的する衝動(なにを食べたいか)だけではなく、外にある様々なモノや環境の制約(なにを食べられるか)、価値基準(なにを食べるべきか)によっても織り上げられる、極めて複雑なプロセスの結果なのです。

國分自身がそう言ったわけではありませんが、こうして「食べる」という例えで並べてみると國分の転回がよくわかります。
『暇倫』が「味わって食べる」ことについての本だとしたら、『中動態』は「食べるものを選ぶ」ことについての本だと言ってよいでしょう。そしてこの例えにおいて大胆に要約すれば、國分がスピノザを紐解きながらたどり着いた処方箋とは、「食べる」まえに「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか? たまたまラーメン屋のまえを通ったから食べたいような気がしただけじゃないのか? 俺はラーメンを食べさせられているんじゃないのか?」という具合に立ち止まってよく考えてみる、というものでした。

哲学者の大澤真幸は國分との対談のなかで、このような中動的な行為生成の主体を楕円に例えています[viii]。
楕円のふたつの中心のうち、ひとつは私、そしてもうひとつの中心は、他者というわけではないが私とも言い切れないいわば「他者以前の他者」だと大澤は言います。

そして、たとえば我々が「書く」とき、「書こうとしている」だけでも「書かされている」だけでもだめで、「書かされてる感と書こうとしている感が見事にブレンドされたときに最高のものになる」ということが確かに起こっています。主体は二人に分裂し、そして二人の相互作用によって行為するというわけです。

「これを食べたい」私と「これを食べるべき」もう一人の私、「食べる」私と「食べさせられている」もう一人の私。二人の「私」は同じ楕円の内にあり、これをすりあわせるようにして、我々は「食べるものを選ぶ」のです。

(続きます)

[viii] 特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」|週刊読書人ウェブ(代官山蔦屋書店)

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