アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(4/12)

(4)「食べる」こととその禁止

しかし國分はは、なぜこのように問いの矛先を変えなければならなかったのでしょうか。『暇倫』の続きをやるのであれば、我々がいかに味わうか、ということについて、さらに考えを深めてもよかったのではないでしょうか。

この転回のよく知られたひとつの理由として、薬物・アルコールの依存症というテーマとの出会いがあります。当事者研究で有名となった小児科医の熊谷晋一郎や発達障害患者の綾屋紗月、依存症患者をサポートする施設「ダルク」の人々との出会いです。

意志や責任を問い直す『中動態』の出発点には、意志の弱さと理解されがちな依存症の問題があります。我々はまさに『ハーモニー』の生命主義社会においてもっとも嫌悪されるところの嗜癖行動が『中動態』の主題でもあった、というところに、まずは両者の明らかな接点を見出すこができます。

依存症とは、やめなければいけないのに薬物・アルコールの摂取をやめられないことを指します。話を簡単にするためにまたしても「食べる」の例を出すならば、これは生活習慣病・肥満の患者が、それ以上食べる必要がない(とされている)のに食べることをやめられない、という問題に相当します。

平たくいえば「ついつい食べちゃう」というこの問題を扱うためには当然、我々がいかにして「食べる」に至るのかを考えなければなりません。「お前が食べすぎたんだろ!」と責任を問いつめることよりも、「どうして食べてしまうんでしょう」と考えることの方が、治療においてはずっと大切なのです。そして実際のところ、この問題は常に「味わって食べる」問題より先行して存在しています。

國分がこの事実に気がついていたことを、克明に記録している論考があります。

『ユリイカ』の2011年9月号、B級グルメ特集に『インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード』という短い論考が掲載されています。『暇倫』の初版が2011年10月なので、『暇倫』がだいたい書きあがるころか、書きあがった後で書かれた文章ということになります。

巷ではよくファストフード/スローフードという対比が用いられます。しかしこのファスト/スローという対立軸は、食の本質をとらえていないと國分は指摘します。ファスト/スローとは実は食べるのに所要する時間のことで、つまりは結果に過ぎない、それではそもそも食べる時間の違いを生む差異とはなにかというと、それは食べ物に含まれる情報量である、というのです。

「質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない」のに対し、「味わうに値する」ハンバーグは絶妙な比率の合い挽き肉、甘みを引き出されたタマネギ、そして肉汁を保持するためのつなぎ、その香り、盛り付け、等々によって複雑に構成され、膨大な情報量を持っています。当然、前者はすばやく食べることができ、後者はじっくり味わわないと食べられません[ix]。
この情報量の多寡をもって、インフォプア/インフォリッチという対立軸を立てるの本質的なのだ…というのが本稿の論旨なのですが、ここでは「味わうに値する」というフレーズに注目したいと思います。

この「味わうに値する」か否かという価値基準は、そう意図されたかどうかは別として「味わって食べる」という『暇倫』の処方箋の限界を自ずから示していることになります。もし「食べる」のが質の悪い「ハンバーガー」なら、時間をかけてよく噛んで味わったってなんの意味もないじゃないか、というわけです。
当然、次に考えるべきはどうやって「味わうに値する」ハンバーグにたどり着くのかということ、つまりきちんと「食べるものを選ぶ」ことをおいて他にありません。この意味で『暇倫』から『中動態』への転回には必然性があります。

しかしもうひとつ、のちの転回を示唆していたのが2012年に書かれた『生存の外部——嗜好品と豊かさ』という論考です。

同じく『暇倫』の問題系を引き継ぐかたちで書かれたこの論考は、ハンバーグからもう一歩進んで、まさしく「味わう」ことのみに存在意義のある「嗜好品」という存在に注目します。「生存に関係ない、生存の外部にある、純粋に楽しむためだけのモノ」である煙草やアルコールの摂取について考えることは、退屈の問題を扱ううえで革命的な意義がある、というのです。そのうえで國分は、次のように批判します。

もちろん「健康」を一概に否定するつもりはない。別に誰もがタバコを吸ったり、酒を飲んだりする必要もない。しかしここには、楽しむということに対する、社会からのぼんやりとした禁止が現れているような気がしてならない。[x]

我々はここで、國分の姿を若き日のミァハと重ね合わせずにはいられません。
二人の思想家が立ち向かおうとした相手は、ほとんど同じ姿をしています。得体のしれない「健康」なるものにぼんやりと禁止されて、嗜癖行動を差し控えること。食べたいものを「食べる」のをやめること。そのとき「食べる」主体として名指される患者/市民、そして、その主体の意志を標的化する、医学と政治によって織りなされる権力…。國分もまた、意志へと向かう道中で「健康」について考えていたのです。

しかし、「健康」と意志について考えた末に行き着く先が「ハーモニー・プログラム」と『中動態』ではずいぶん違います。前者は意志が存在することを前提とし、標的化し、そのうえで無効化する試みです。後者は意志というアイデア自体を相対化し、それにより自由に近づく試みです。二人の道はどこで分かれているのでしょうか。そしてそもそも、二人が問題視したこの「健康」とは、いったいなんなのでしょうか。

[ix] 國分功一郎「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、pp84-85
[x] 國分功一郎「生存の外部——嗜好品と豊かさ」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、p77

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