「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威」岡田尊司 光文社新書


現代は「生きづらい」時代であるとよく言われる。だが、その生きづらさとは果たしてなんなのか、明確な説明はない。
だが、漠然と不安で満たされず、他者と安定して成熟した関係を築くことができないことは往々にしてある。それは内向的な子どもに特有のものではなくて、一般的に「大人」であるとされる年代にも見られる。
そこで最近聞く言葉が「愛着障害」がある。愛着とは英語でアタッチメントと呼ばれる「母性的人間との間に形成される関係」のことを指すものだ。通常は幼少期に主に母親との関係性の中で作られるものだが、現代では社会環境の変化また家族構成や家族観の多様化により愛着が適切に形成されない場合が見られる。愛着は、「母性的人間」との間で形成されるものであるから、必ずしも実の母親である必要はない。ある研究によると、プロの保育士であっても健全な愛着形成は問題なく行えるそうだ。大切なのは血の繋がり云々ではなく、子どもが母性的人間と適切かつ安定した愛着を固定させることができるか、という点である。


岡田は「愛着障害」を現代の奇病と呼び、それこそが現代の生きづらさの正体であるという。この奇病について、アメリカにおいては1940年代まではほとんど報告されていなかったが1950年代になって初めて報告され始める。精神医学の概念では捉えられない精神病とも神経症ともつかない「境界状態」として報告され始めたのだ。さらに1960〜1970年代にかけると情緒不安定な患者が見せる自殺系図、自傷行為などによって精神病院は混乱をきたす。またこうした患者は従来の治療を行うと過度な依存やぶつかり合いを医療スタッフの間で起こすようになった。こうしたケースは「境界例」と呼ばれたが、次第に日本でも存在が知られるようになっていく。さらに約30年の間にはこうした光景は一般家庭や学校でも見られるようになっていく。これらは現在では境界性パーソナリティ障害と呼ばれるものである。
またうつ病や双極性障害などは従来「大人の病気」であり、子どもの罹患は報告されていなかったが1960年代から徐々に増え始めている。子どもの双極性障害は大人のものとは異なり、ADHDや攻撃的行動、非行、薬物乱用を伴い易く、虐待などとの関連性が強いことが指摘されている。そして異常な増加が見られたのが1990年代後半以降のことである。またADHDは従来は遺伝要因による神経発達障害であると言われており、爆発的に増えることは考えづらいが年々増加をしている現代の奇病の一つである。岡田は過去に報告されているADHDの症例も現代であれば愛着障害と診断される可能性のあるものであると指摘する。遺伝性の強いADHDと、愛着障害を伴うADHDとは異なるものであるという。


境界性パーソナリティ障害、摂食障害、気分障害、ADHDなどに共通するのは、不安定な愛着との関連性が指摘されているものばかりである。こうした精神疾患の裏側には、不安定な愛着関係が隠れている。
愛着関係には、安定型、抵抗型、回避型、さらに不安定な無秩序型と呼ばれるものがある。こうした愛着のパターンは恒常性が見られ、1歳半の時点で安定型であった人は成人の時点でも7割の人が安定型であったという。愛着のパターンは10代の後半には愛着スタイルとして確立される。大人では、安定型、不安型、回避型、未解決型といった名称が使われる。
愛着において大切なことは、「程よい応答」であることが分かっている。母親が子の求めるものを的確に察知し、与えることは子供にとって理想的なものである。こうした存在は「安全基地」と呼ばれる。
岡田は愛着障害を「死に至る病」と呼ぶ。この語そのものはデンマークの哲学者キルケゴールから来ているものだ。キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」としたが、まさに不安定な愛着は人の心に絶望をもたらすものである。これは大袈裟なものでなく、愛着障害を抱えて人が生涯の中で様々な精神疾患に罹患し苦しむケースが多く報告されている。その中には希死念慮、自殺系図なども含まれており、まさに「死に至る病」である。
こうした現代人特有の「生きづらさ」とは、単なる子育て上の問題、家庭内の問題に留まるものではない。社会の中に、家庭以外に子どもや他者を受容する「中間地帯(緩衝地帯)」が失われて久しいこととも無関係ではないだろう。子を産み育てることは、社会的なことでなく極めて個人的な事とされ、自己責任あるいは自己選択の名の下に十分な社会的支援がなされていない。また社会環境そのものの大きな変化が負の連鎖に拍車をかけている。女性の社会進出とともに、ADHDや子のうつ病などの報告は増えているという研究もある。雇用形態や価値観の多様化は進んでいくが、家庭においては未だに「母親信仰」が根強いことも大きな矛盾であろう。さらに科学的知見に基づかない経験主義、研究事例の極端な一般化など課題は大きい。
1970年代のアメリカにおけるマイノリティの権利擁護運動の中で、「個人的なことは政治的なこと」という言葉がある。政治的とは、社会的なことでもあると言い換えてもよい。人は誕生から1人では生きてはいけない。集団の中で育まれ、集団の中で死んでいく。それが自然な生物としての在り方であったはずだが、現代の社会にはそこまで人を受容する余力が乏しくなりつつある。だから孤独死という単語が社会の中で大きな意味を持つようになっているのだ。
個人的なことは社会的なことであり、社会的なことは個人的なことであるのだ。そうした地平では、誰もが等しく当事者になる。現代の生きづらさは、誰かの生きづらさであり、私の生きづらさである。それは社会の中で癒されるべきものであり、集団の中でしか癒されないものでもある。
歪で不完全な個人主義から抜け出て、「私たち」の生きづらさと向き合わなければならない。

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