「差別の構造」
好井裕明の「他者を感じる社会学」を読む。現代において、他者というものは大きなワードである。人は自らの価値観そのものでなくて、他者のそれを通して自己というものを見る。自らの価値観そのものすら、他者という軸を通して作られたものであるといってもよい。
他者と自己。
これは一つの境界であり、分断である。話は飛ぶようだが、昨日YouTubeで偶然にもNHKのアメリカ大統領選挙に関するドキュメンタリーを見ていた。アメリカ大統領選挙を通して、分断されていくアメリカ社会というものを追ったものだ。そこにあったのは、トランプ支持者とバイデン支持者という単純な図式ではなく白人と有色人種、伝統的な保守層とリベラル、経済格差など様々な属性と政治との複雑な相互作用だ。そこにメディアの単視眼的な報道とが横串となって重なる。分かりやすい一般化というパッケージは、鑑賞者にとっては受け取りやすいものだ。だが、そこには自らを脅かす他者に対する人々の潜在的な恐怖と怒りへの眼差しが決定的に欠けていると思う。
差別という現象も、理解しがたい他者への普遍的な現象である。
先述のNHKのドキュメンタリーに触れれば、一般にトランプ支持者というのは白人至上主義で人種差別的であるとよく言われるが、リベラルで鳴らすバイデン支持者たちの言説にも無意識な選民意識や差別意識があることは案外指摘されない。彼ら自身が自らは人種差別を始めあらゆる差別や偏見を許さぬ、という意識で行動しているが故にそれは一見して分からない。だが時に過激な彼らの反トランプ的な言動は画一的でそれこそ偏見と差別に満ちたものと大差ない。主張の内容や立場は置くとして、トランプ支持者もバイデン支持者も内部に抱える構図は同じように思える。彼らは互いに同じ差別主義の輪の中にいる。それは彼らがトランプを支持するからとか、バイデンを支持するからという単純な理由による訳ではない。差別とはどんな人の中にも起こりうる普遍的な現象であるからだ。
好井は差別の構造についてこのように書く。
「私がこの項目で強調したかったこと。それは『差別現象の多様性』であり『歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること』が差別につながる私たちの根本的な日常的実施であり、『この実践と向き合い詳細に解読し、解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践』だ、ということです。
私たちの多くは、『確信犯的な』差別などしたくないし、行おうとはしないでしょう。でも多様な差別現象は、まさに私たちの『日常』で起こり、私たちは、その『日常』を生きていると言えるのです」
差別とは特別な現象でも、特殊な人たちの間のみに起こることでもない。だが、こうしたことは私たちにとっては受け入れがたいものだ。対岸にあったと思っていなものがまさに私たちの日常的実践の中にあったのだから。好井はさらに「『普通』の世界には、さまざまな『ちがい』を持った他者をめぐる思い込みや決めつけ、過剰な解釈など、歪められ、偏り、硬直した知や情緒が充満しており、こうした知や情緒を『あたりまえ』のものとして受容してしまう時、まさに私たちは『差別的日常』を生きているといえます」とまで書く。
差別の裏側にはりつくものは、理解しがたい他者に対する、あるいはその他者に付属している特殊(だと思われている)属性への恐怖である。そして、その恐怖は自らの優先的な立場を被差別者たちが犯すのではないか、といったものに根ざす。それは経済的なものであったり、支配的な社会集団にどのグループがなるのかといったものまで様々だ。兎角アメリカのような多民族国家では人種間の問題が云々されるが、端的にいえば差別は経済の問題でもある。
人々が実際的に脅かされたと感じるものは、抽象的な権利などではなく、やはり経済的なものなのだと思う。そうした「生活」の前では、「自分の膜を守りつつ、他者の膜つまり、他者の私的世界を侵犯しないこと。これこそ、私たちが日常しっかりと守っている最大の儀礼(エチケット)」などほとんど意味を持たない。むしろ、差別という自らを脅かすものへの攻撃性の方が「望ましい」選択肢として私たちの前に現れるのではないか。これは差別という現象を擁護するわけではない。だが、一方でこのような構造が社会的生物としての人間の中に根づいていることも、やはり事実なのではないか。
他者について、私たちはこれまでにないほど複雑な理解を求められている。多様性に対する寛容さは当然のことであり、権利であり、それに対する教育活動は疑うことなき善である。
こうした構造と空気を持った社会の中にありながら、差別とは普遍的な現象であり続ける。その普遍性と、現代的なリベラリズムを基盤とする価値観とはどのようにあるべきなのだろう。現代において、他者という存在の持つ漠然性と曖昧さ、そして侵食性はかつてないほどの力を持っていると私は思う。それは同時に差別感情の高まりをも意味するものではないのか。他者とは名前のある特定の人物のみを指すわけではなく、「自分以外の」無数の存在、あるいは背景としても機能する。こうした背景としての他者はより捉えどころがなく、そうであるが故に一人一人が好き勝手にセンセーショナルなラベルを貼りつけやすいものになる。そこには他者という存在への曖昧性よりも、器としての社会そのものの曖昧性や不安定さ、個人の参加意識の希薄化と疎外感の高まりにあるようにも思える。差別の構造は、そのまま社会そのものの構造の一側面である。
社会の分断とは、そのまま個人と個人の分断である。それに対する処方箋は今のところ自由主義も、民族主義も示せてはいないのではないか。
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