「文明と人間性」

神谷美恵子は、私の尊敬する日本人の1人だ。彼女はハンセン病の患者への治療(特に精神医療)に尽力をした精神科医であり、翻訳者、文学者でもあった。私が彼女を好きな理由は、その疾病観、障害観にある。
前田美恵子名義で書かれた「癩者に」という詩によくそれが現れている。

何故私たちでなくてあなたが?
あなたは代わって下さったのだ、
代わって人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。


疾病や障害の中に当然ある苦痛というものへの、ある種の宗教的とも言えるこの観念は、単なる理想論ではなく、実際にハンセン病に(社会的にも)苦しむ/苦しめられる現実を踏まえての実感が込められている。だが、このような境地には中々たどり着けるものではない。
大抵の他人の苦痛というものは通り過ぎてしまうものだ。それを見るということ、受け止めるということは、諸刃の剣だ。神谷が書くように、それは他人の問題ではなく、地続きで「私たち」の問題へと還元されていく。根本的な疑問と矛盾とにぶち当たるからだ。このような劣悪な、悲惨な現実を抱え込んだ私たちの社会とは、一体どんな存在なのだろうか。そして、そこに生きる私とは、生活とは一体なんなのだろうか。こうしたことは、受け入れるには耐え難いものだ。神谷の言葉が胸を打つのは、それらを包括した眼差しと思想が土壌としてあるからだ。それは必然的に哲学的、宗教的なものになっていく。
神谷の著作に「旅の手帖より」というものがあり、そこにこんな文章がある。


『心の飢え』を満たすものこそ人間にとって一番大切だということです。現代の私たちに必要なのは、衣食住も必要だけれども、何よりも最終的に大切なのは心の豊かさであるという価値観をはっきりさせ、それを社会の中にも個人の中にも実現するために、文明を使いこなすこと、またこれからの文明の向う方向を支配することだと思います。

ここで、文明とは果たしてなんなのだろうと考える。神谷は暗に、文明それ自体の持つ、あるいはその歩みそのものの「非人間性」というものを念頭に置いていたのではないか。それは神谷の肌感覚でいえば、ハンセン病患者を未治療のまま放置した社会(文明)の非人間性であろう。
それがやがて心の飢えとなっていく。そして、その飢えとはなんだろう。神谷にとって臨床的には精神疾患を意味したが、即物的な概念でなくて、より普遍的な人間一般が抱える飢え、渇きのようなものだともいえる。人間が本能的に抱えるこのような飢えを、文明は癒すのではなくむしろそれらを貪り食いながら肥大していき、さらにその飢えを増幅させるような存在となっていく。
神谷はそうした現実を実感しながら、特に精神医学という学問はどう答えることができるか、という点について、念頭に置いていたのだろう。あるいは精神科医とはそれをどのように「治療」していくのだろうか?
神谷は「人間をその内側から理解すること。これこそが精神医学の理想であり、これこそこの学問が教えてくれたことだ」と書いている。精神は人間の器であり、その内側を表すものだ。神谷は社会や文明という外側の非人間性というものを、ハンセン病の療養所で暮らす患者たちを目の当たりにして実感をした。
改めて、文明とは進歩とは、そして人間性を捨てない文明の在り方とは何かということが問われていたのだ。


神谷の体感したことは、すでに歴史の中にある。ハンセン病も国家賠償請求が教科書に載るような出来事となりつつある。
なぜ、人は癒されないのか?
精神疾患は今や5大疾患の一つだ。
なぜ人は心を病むのか?
私は専門家ではないけれど、心の病いというものはある部分では社会そのものの病いであるとも思う。非人間的な労働環境や、温かみを知らない家庭や繋がりを絶たれた地域社会というものは、恐らく疾患を培養する好環境なのだと思う。これらの中に共通することは、人間の顔が見えないこと、そして実感の欠落というものがある。これは別に珍しいものでもなく、社会そのものがそうした性質を持つようになっている。
顔の見えない関係性の常態化、実感なき関係性の定着化というものが現代文明の基本であるとするならば、それらは私たちをどこへ導いていくのだろうか?
少しずれるかもしれないが、私は現代に充満した言いようのない閉塞感と停滞感というものが、先日のオリンピックの開会式に煮詰められているな、と改めて感じた。一貫性のあるテーマの喪失、広大な会場を使っておきながら小粒に動き回ることしか許されないダンサーやらパフォーマー、だが彼らのどこか自己陶酔的な表情と、鑑賞者の白けた反応、あるいは怒りというものすべてが見事に今の日本という国の置かれた状況と時代の空気というものを皮肉にも表していたと思う。開会式で唯一の見所が、人を排したドローンの演出であったことも極めて示唆的であるといえないか。
散逸したテーマは、そのまま正しき神話なき現代を表していると思う。社会から与えられる生き方を選択をする時代は終わり、個々人が自らの手で生き方を選ぶ時代になる。だが私たちは未だその選択のやり方に「慣れない」。皮肉にも大きな物語を欠いた開会式は広告会社を批判するまでもなく、恐らく誰の中にでも存在する「稚拙さ」なのだろうと思う。
人間の顔よりも、個人の顔が前面に出てくる社会は、皮肉にも人間性からは遠のいていくようだ。代わりに出てくるのは、生活という単位だ。この生々しさ、一方で感じる「無関係な感じ」、どこまでいっても全体性よりも個別性という趣きは当事者には重大なことではあるけど、それ以外にはどこか白けたものを呼び起こす。このシニカルな反応は、容易な攻撃性へと転じることもできる。これら全てはひっくるめると、非人間的な要素を単純に含む。一人一人は存在はするけれど実感なき存在という矛盾したものになる。目まぐるしく加害と被害とが入れ替わり、終わりを迎えることがない。
この矛盾と複雑性とが社会の中に横たわっている。そして、それが現代というものの皮肉な側面の一つだ。時代ははるかに豊かになったはずであるのに、満たされないなにかがある。それがなにかと問われれば、「人間性」である。

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