今後いい事なんてあるもんか

私、最近自分の死に方を決めたのである。

それは自分で決められるものではないのではない?と、人は思うと思うし、私もそう思うのだけれど、死に方の願望が初めてできて、「ああ、死ぬことが分かっている方が良くて、ゆっくりとみんなに感謝をして言葉を尽くしてから死にたいな」と、そんな感じに思ったのだった。願望です。できれば遅いほうがいいけれど、早いのはしょうがない。けれど、とにかくそろそろ死ぬと分かっていること、それからお世話になった人には少しでも感謝を伝えられること、これができたらいいな、逆にこれができない死に方はしないように出来ることは精一杯気をつけよう、と思ったのです。

自分にコントロールできない事を決めるのはものすごく力が湧くのだ。元気が出るのだ。努力じゃどうにもならない部分を一生懸命決めるというのは、ほとんど賭け事のようなもので、その賭け事に私は勝ちたい。この賭け事は「死に方」なので負けたら分からない仕組みになっている。勝った時にだけ勝ったと思える。(死後の世界がないならばの話だけれど)あまり嫌な気のしない賭けである。

4年ほど前に舞台の終演後の飲み会で、共演者の友達のお客さんに手相を見てもらった事があった。「あーこれからいい事はあんまり起こんないねえ」と言われて、恥ずかしながら涙目になった。とても恥ずかしかった。そこから、毎日いい事も悪い事もあった。でもどれが本当にいい事でどれが本当に悪い事なのかは見当もつかない。「人間万事塞翁が馬」とよく励ましてくれた先輩を思うと、いい事を良い事、嫌な事を悪い事、そんなふうに単純に捉えることは出来ない。しかし、では今の自分はいい事が多めに起こった集大成の素敵な人間か?と考えるとおそらくそうではない。では、結果は?結果はどうなのか、涙目になるほど「今後いい事がない」との予想に傷ついたわりには結果も全く分からない。いつわかるのかも分からない。

いいよ、もう、いい事なんて起こんなくても

いいよ、もう、十分だし、いい事ってなんだよう。100万拾えなくてもいいし、小松菜奈ちゃんになれなくてもいいし、風が気持ち良いと思ったら雨降って傘飛ばすし、元気だーと思ったら眠れなくて次の日ぐったりするし、ケーキ!と思ったら太るし、男女年齢問わず好きな人ができると失う怖さでヒリヒリするし。

ね。なんて大変なのだよ。よくみんな生きてるな。



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